いつの頃からか、よく耳にするようになった「あるがまま」。「あるがままに生きる」、よいと思います。

しかし、これもよくある「あるがまま教」、私は、苦手なのです。「いいの、いいの、そのままでいいの」「私もあなたも、そのままでいいの」。漂う高揚感。

みんなしてハイテンションで、ポーズを取って集合写真。そういうのをネットを見かけるとブラウザの「×」をクリックして、そっと閉じます(それ以上、見る必要なし)。



「あるがままでいいこと」を、講師(権威者)、その場にいる人達、その場の雰囲気に認めてもらって受け入れてもらって、生まれ変わった気分になるのは、私からすると何かが違う(あくまでも個人的な感覚です)。

「あるがまま」とは、ざっくり言ってノーコントロールを意味すると思いますが(そうではない場合もあるけれど、それは別の機会に書くとして)「あるがまま」を標榜しつ、依然として上位の権威やパワーのコントロールのなかにいるのが「あるがまま教」。

どこまで行っても、それに気づかないのが「あるがまま教」。(「あるがまま教」でなくても、「宗教みたいなもの(2013年2月過去記事)」とはそういうもの)

折れそうになったとき「あるがままでいいのよ」と言ってくれる人や場を必要とする。バーチャルな世界で言うと「あるがまま教」の教祖や信者のブログを読むとかね。

どんな人も他者との相互作用/関係や縁起のなかで生きているから、ブレイクスルーのきっかけを掴む場があるのはいいし、自然だと思うのですよ。でも「これこそが私にとっての救いの道」「私が救われたい」、そういうのはいかがなものか(自覚しているかどうかは知りません)。

「あるがまま」であることについて他者の肯定を求めるとしたら、愛を外側に探しています。「あるがまま」であることによって救われたい「私」とは、誰ですか?それは「本当の自分」のように見えるかもしれないけれど、依然として「エゴマインド」ではないでしょうか?

あるがまま」自体はOKです。

「あるがまま」であろうとなかろうと「この人って???」の場合、私はそれを許容はしますが、距離をおきます。「あるがまま」の人、そうでない人、どちら側の人間であろうとそれは同じ。

他者の「あるがまま」を受け入れねばならない、というものではないし、「あるがまま」を受け入れあうのが良い関係とも限りません。常に選択の自由があります。

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