先日の出張で見かけた表参道の小学校の桜。この頃は、まだ満開ではないですね。

東京出張の機会に友人や知人に会いました。近況として、家の塗装工事をしたことを話して工事完了後の写真を見せると、なぜか皆さん「シェアハウスにしたら?」とか「民泊ができそう」とか「ホームステイに使ってもらったら?」等、場所活用の話に繋げていきます。

私ひとりが住むには広すぎる家。世間話のひとつに過ぎませんし、深い考えはないと思われます。しかしながら実のところ「家は、私にとっての聖地&パラダイス」という位置づけであり「いろんな人に使ってもらいたい」とは考えていないのですよね~。

「場所の有効活用」とか、「公益性や公共性の提供(人々にとって有益な場所)」とか、家の使い道として私にも考えた時期があります。しかし結局のところ、そういうのはアタマの中の考えに過ぎず、本当のところは誰かに来てもらいたいわけでも、人や世のためになる場所としたいわけでもなかったのです。私のハートにとって最も大切なのは「私にとって唯一無二の場である状態」へと整え続けること。

アタマで考えた紋切型の貢献は独善的で押しつけがましいし、自己満足でよければともかく、社会のなかで上手く機能しているケースは少ないように感じます。

本日はアゼルバイジャンで購入したグラスで紅茶を楽しみました。梨型になっていることで紅茶が冷めにくいのだそうです。

最近、散発的に観たのがNETFLIXオリジナルドラマの「The OA」。一気に観ていないので前のストーリーを忘れてしまったなかで続きを観ていましたが、キアヌ・リーブス主演の映画「マトリックス」が、今の時代に合わせて進化した感じで、かなり面白いです。

“多次元宇宙” を舞台としていて、あるひとつの次元の何かが変わったり、その次元を超えたりすると、ほかの次元のドラマや設定も変わる。ほかの次元の記憶を持っていることもあるし、持っていない場合もある(登場人物たちは潜在意識や集合意識を共有してパラレルな世界を生きている)。場面設定、人物設定、人間関係は次元ごとに異なるけれど、縁のある者同士が集合的に関わり合ってドラマを編んでいる。他の次元へと意図的に移行するには、記号・象徴・動き・場所といった、“封印を解く鍵” と “それに合う鍵穴” に相当する、隠された叡智を体得する必要がある。

このドラマの主人公達は “多次元宇宙” を舞台に、異なる名前、異なる設定を複層的に生きています。「いろんな次元をパラレルに生きるなんてスゴイじゃん」とも言えますが、“多次元宇宙” 自体が壮大なカルマの仕組みになっているとでも言いますか、そういう世界を創っている、人間よりも、さらに上位の存在には何がしかの意図があるのでしょう。

「私」という存在は、縦軸(時間や次元 )と横軸(同一時間や次元における広がり)が織りなす交差ポイントに過ぎません。それを実感として理解すると「自分はつながりのなかで生きているに過ぎず、自分自身が『完全に独立的』かつ『自発的』にできることなど何もない」ということが分かるようになります。

「私」という存在にできることが「ある」と言えばあります。しかし「私」という、ほかと切り離され独立している存在が、それをしているわけではないのです。努力や克己心を否定するわけではありませんけれど、独立した存在としての「個の私」が行なう自発的な努力や克己心などあり得ません。「私」に起きていることは、あくまでも縦軸と横軸のつながりのなかでの受動的な反応や対応でしかないにも関わらず、人間はなぜか「私という個」が主体的に何かを行なっている気分でいる、ということです。

キリストが磔刑になった十字架。私はキリスト教徒でもなければ、その道の研究者でもありません。しかし、縦軸(時間や次元)と横軸(同一時間や次元における広がり)の交わり(クロスポイント)にピンで留められているのが人間という存在であり、その事自体がカルマである、ということを示しているように感じます。縦のつながり、横のつながり、どちらからも自由であることへの道を、イエス・キリストは磔刑からの復活で示さんとしたのではないでしょうか。

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