このところ、ところにより、非二元論争が熱いようです。(その概念と関係なく生きている人の生活においては、接点のない話なので)



元々の世界(って何?)において二元はないんだろうし、自分(だと思っているもの)のどこかが、そのように感じているから、現時点でどの立場に身を置くせよ、そういう話に惹かれるところもあるんだろうし。(二元にも非二元にも、まるで関心のない人達は山ほどいる)

非二元ワールドに限らず、どんなことも(例えば、さんまは七輪で焼くと旨いとかの次元であっても)それを体験した人にとっては真実なんだろうし、そうでない人(よく分からないけれど、モンゴルの人とか?)にとっては、それは概念に過ぎないし。

体験した人にしか分からないし、体験しないと分からない。

じゃあ、体験しているのは誰なのよ?となったとき、体験する主体(私)がいないとするならば、それを体験とは呼べないわけで。

個という認識を前提としたときに、いろんな肉体的、感情的、エネルギー的、感覚的な体験として、それらが起きる。

瞑想における「空(くう)」においても、人間的な視点での二元はないと言いますか、そこにはすべてがあって意味づけはないという意味で(笑)、それを非・二元と描写することができます。

日常的な二元を体験しているからこそ、瞑想を通じて両者を行き来し、個としての体験を超えた何かに触れたことを了解します。(瞑想という言葉を使っていますが、目を閉じて座ることだけが、瞑想ではありません。日常生活を当たり前に送るだけでも、瞑想状態は起こり得ます)

二元を体験するからこそ、非二元についての知的解釈を超えた世界を、肉体をもった存在でありながらも了解することができる。

目の前のことに丁寧に取り組むことです。そして、アタマのなかにあるストーリーから自由であること。

それ(目覚めの体験?合一の体験?)が起きるのか、起きないのか。起きるとしたら、いつ起きるのか。全体においては決まっているのかもしれませんけれど、私という個には、さすがに決められないことです。

多くの宗教は、「慈悲」の大切さを説いています。昨今の顕教・大乗的な宗教をちらと見たところでは道徳的、倫理的、社会統制的に(あとは教祖や創始者が単にそう言っているから)「慈悲」が大切しているように感じるところがなきにしもあらず。(顕教・大乗は、幅広い人達からなる一般大衆に向けたものである、という事情もあるのでしょう)

その一方で「慈悲」とは「あなたも私も、同じように素晴らしい質、醜い質を持っていて、変わるところのない存在なのである」「あなたと私はひとつであり、同じである」という境地につながるものであり、それがおのずと行為となることを述べたうえで「慈悲」なきところに「目覚め」はない、という立場をとっているところもあるようです。

「慈悲」があたりまえ、それとともにあるのがデフォルトの状態に至ってはじめて、大いなる力が、個人を非個人へと変容させる、というとらえ方です。

私は宗教というものにあまり関心がないのですが、この世は二元なのか非二元なのか、そのいずれか、はたまたその両方だったときに、出来事をどのように解釈するのが必然/妥当か以前に「慈悲」の境地(普通の人間としての、個から非・個へ)を、ときどきであっても体験していくことが大切なのではないでしょうかね、と感じます。

365日、24時間。全体性として生きていらっしゃる方もいるのかもしれませんけれど、肉体をもつ以上分離との間を行き来するのが普通の人間だと思いますので。

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