気が付けば、梅の実がたくさん付いています。

去年よりも、ずっと多いような気がする。

これらがすべて熟すわけではないのでしょうが、たくさんの実を収穫できそうです。

今年は、梅酒よりも、梅干しづくりに力を入れたい!

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今までも、心のどこかにはありました。

「心置きなく話すことのできる、無理せず、一緒にいられる仲間が欲しい」

 

しかし、過去のアレコレにより、それを否定する自分がありました。

「それを願っても無理な相談。私は自由でいたい。行動や考え方の制限を受けるのはコリゴリ」

 

いつも、そのふたつの思いが戦っていました。

でも、ここ一連の流れで気づきました。

私は仲間を欲していると。



私のなかで、「仲間づくり」とは、「囲い込みの一種」でした。

 

ある程度、固定的な枠組みであり

そのなかで上手くやっていかねばならない。

無理をしなくてはならない。

自由がない。

 

誰かが何かを言って

 

多くの人がそれに同意しているなかで、違うことを言ったり、しないほうがいい。

 

私も、ほかの人に

無理をさせてしまっているのかもしれない。

 

ほかの人の

自由を制限してしまっているのかもしれない。

 

その状況が、どちらかが死なない限り、ずっと続いていく。

 

特定の誰かでなく

そのときどきで違う人であっても

協調性を強いられる/強いることになるならば、ひとりでいるほうが、ずっとマシ。

(ふたつにひとつならば、そちらを選択するほうが、私にとって、利するところが大きい。少なくとも自由でいられるから)

 

それが「仲間」と呼ばれるものの、自由を何より尊ぶ「私」における印象でした。

 

一対一の関係は昔から苦手ではないのですが

(対等という関係図式が明確なので)

 

「私 対 多数」

「グループの中の私」

の居心地の悪さと言ったら。

 

私は比較的早くから(小学生の頃から)

長期休暇になると、海外に出してもらっていました。

そのあたりは

母の考えと後押しによるものであり、とても感謝しています。

 

海外に行くと、なぜか、とても生き生きできる。

言葉は不自由ですが

日本の人たちとともにいるよりも、ずっとラク。

日本的な同調圧力から自由になることができるので。

 

これも思い込みかもしれませんけれど

私からすると、

日本的な同調圧力とは

自分という個人をどこかしら殺してでも

集団のなかで生きるにあたっての

利を取ろうとする行動パターンにも見えるのですね。

(情的な部分までをも含めての損得勘定が絡んでいる)

ベースが農耕民族なので、それが自然と言えば自然なのかも。

 

「そうか、私はもっと仲間が欲しいのだ」を、より正確に表現すると

私は、何かのグループに属することを欲しているのではなく、

固定的ではない

一対一の関係を、今まで以上に、たくさん持ちたいのだと思います。

これまでグループに属することを敬遠するあまり、人との関わりに消極的なところがありました。

これからは、もっと外向きに生きていこうと思います。

 

生涯二度会わない人、この先、ともに行動することのない方も、ある瞬間は仲間。

 

是非、私の一期一会の仲間になってください。

 

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