今日は復習セッションでした。

10月に、こちらでアクセス・バーズ講座を初受講された方がいらっしゃいました。

交換セッションでは、指の位置が完璧でした!身体の隅々まで気持ち良かったです!

私が施術した後は

頭が内側と外側からスッキリし、頭痛が取れたとおっしゃっていました。

あなたの「空(くう/コンシャスネス)」を広げる案内人&草の根ブロガー、あつこです。



愛犬を羽交い絞めにしたところを

撮っていただきました。

(ニケの顔がしょんぼり・笑)

前回の(2)までとしてもよかったのですが

「この世で起きることは、すべて自分の責任(引き寄せたもの)」

というモノの見方に潜む危険について指摘して

このシリーズを終えたいと思います。

 

かつて私は3年ほど

本職と掛け持ちで

引きこもり・不登校の方たちのサポート職を務めたことがあります。

 

そういった方たちに多く見られる傾向として

『自意識過剰』

というものがあります。

 

「みんなが私を見ているのは、私が美しいからだわ」

という

『自意識過剰』ではなく

逆方向のものです。

 

たとえば

● 私は変な人だと思われている

● 私は嫌われている

● 周囲の目が気になる

● 外に出ると、人が私について、ひそひそ話をしている

など。

 

「誰もあなたのことを気にしていません」

「あなたを見つめることがあっても、あなたが変だからとは限りません」

「外に出ると、誰かがいるのは当たり前です」

ということを

すんなりと受け入れられず

他者の反応や出来事を

自分に関連づけずにはいられない、ということが起こります。

 

もちろん、そこには

成育歴に端を発した

メンタルブロック(劣等感や罪悪感)が関わっていることが推測されますし

・精神面が弱っている(軽度)

・メンタルに関する病い(より進行した状態)

なども考えられます。

 

起きてくる、いろんなことを

あるがままに見られない。

(「自分が何をしていても、何を話しても、深く気に留める人は世間にほとんどいない」という事実を捻じ曲げる)

 

そして

偏った解釈を

「自分」に紐づけてしまう。

(私にはどこかおかしな点があり、それが他者や社会から不興を買っており、自分には居場所がない。それは自分のせいだ)

 

自分の責任と思わなくてよいことまでをも

「私のせい」と見なします。

(あるいは「私をそのようにしている人や社会のせい」という多重構造にしたりもします)

 

出来事に対する偏った解釈

必要以上に自分の問題として紐づけることは

健全とは言えません。

 

数日前

私の家の前のお宅では

足場を組んで

屋根の防水塗装工事が始まりました。

 

そのお宅の屋根から

雨漏りがするようになったからではないかと推察しますが

そのお宅の雨漏りを

私が引き寄せた(=私が創造した)とは思いません。

 

また、現場で働く作業員に

監督みたいな人が怒鳴っていたとしても

私に対して怒っているわけではないし

彼が叱られたことについて

私に責任があるとは思いません。

 

(仮に、それらが、波動レベルでの私の責任であるとしても、責任として見なさなくていい範囲の出来事と考えます)

 

心が弱ってくると

道で立ち話をしている奥さん達が

自分の噂話をしている、

裏の家から聞こえてくる大声は

自分の家が何か迷惑をかけたからかも、

と心配になる、ということが

どんな人にも起こり得ます。

(「心」という働きをもって生まれた人間は、すべからく病気の素因を持っている半病人であるから)

 

「私達は現実を作り出す創造主なのだから、すべてに対して責任がある」

と胸を張って言うことができるのは

この世のすべてに対し

身をもって現実的な責任を取ってきている人か

言うことだけが大きくて

行動の伴わない

面の皮の厚い人であって

 

心の弱っている人に

「起きていることは、すべてあなたのせいなのですよ。あなたが引き寄せたのです」

と刷り込んだとしたら

その病的状態を

さらに悪化させることにもなりかねません。

 

自分に対して厳しくあろう、

ということならば結構ですが

 

その後フォローしていく覚悟もないのに

他者に対して

不用意に指摘するのは

いかがなものかと感じるときがあります。

(依頼されてのカウンセリングやセッションならば別)

 

責任を説いているつもりかもしれません。

しかし、それこそが

無責任というものです。

 

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