確定申告のシーズンですね。来週辺りに、まとめて作業しちゃおうかな。

さて、先日の記事「それって「引き寄せ」(1)」の続きです。

(1)では、主によい事、望ましいことに関する引き寄せを取り上げました。



今回は、その逆、あまりよいこととは感じない、歓迎しないことが起きたとき、について。

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≪スピリチュアルによくある理屈/嘘≫

何か引っ掛かる出来事があると「ここでの学びは何だろう?」と意味を見つけようとする方、「これが自分のところにやってきた、ということは、自分が引き寄せた。それに取り組めということ。取り組まないと、また同じようなことがやってくる」とおっしゃる方がいます。

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先日記事では、よい事、望ましいことが起きた場合、それは果たして引き寄せなのか?と書きました。

私の文章を読んでいて気づく方もいたかもしれませんけれど、あの出来事の報告には盲点(自覚なき操作)があります。

自分にとって都合のよいことだけに意識的になっている、ということです。

①よくも悪くもないこと

②起きなかった「よい事」

は意識化されていません。

例えば

● 東京駅で電車を乗り継ぐとき、そのホームに着いた瞬間に電車が来たわけではない。2~3分待った(東京における当たり前の光景)

● 秋葉原駅から会場まで歩くとき、アスファルトの所々に段差があり、そこではスーツケースを転がしにくかった(これも東京における当たり前の光景だが、宇宙が、私の都合に合わせて舗装し直してくれる、ということはなかった)

● 会場まで歩いているとき、「大変そうだから、荷物を手伝いましょう」という善意の人は現れなかった(これも東京における当たり前の光景)

ラッキーなことが、もっと続々と起きてもいいのに現実にはなかった、それが事実。

しかも、こういった

①よくも悪くもないこと

②起きなかった「よい事」

は印象に残りません。

引き寄せで有効とされるアファメーションは「自分にとって都合のよいことに意識を向けていく」ことを促進するツールと言えるでしょう。(道具は使いようなので、否定していません)

逆のケースも同様です。

起きた不快なこと、望まないことにばかりフォーカスしていて

①よくも悪くもないこと

②今日起きなかった「悪い事」が実は莫大にあること

が意識の上ではスルーされています。

私の家の前の道路は、なぜか近所の子供達の遊び場と化していて

多いときは10人以上にもなり、ドッジボールやら何やらでとても賑やかです。

すべてが自分の意識から起きている、すべての現象の原因が自分の意識にあるならば、例えばこれら10人以上の小学生やドッジボールという遊びを私が引き寄せたことになります。

私は、自分の家の前が賑やかな遊び場になっていることに関してウザいと感じるときもありますが、不快ではありません。(以前、子犬を放して駆けっこしていたときは、事故に遭うことを心配したけれど)

かと言って「もっと、ここで遊んで欲しい」と感じることもなく、その件の、そこまでに関しては態度がニュートラルです。

≪スピリチュアルによくある理屈/嘘≫によれば、例えば、自分の家の前で子供が遊んでいることが不快であるならば「そこに学びがある」ことになります。(個人的な認識と反応の問題であるので、学んでいただいて結構です)

正面から取り組まない限り、どこへ引っ越しても「どこかから子供がたくさんやってきて、自分の家の前で騒ぐ」、あるいは、それに類似したパターンが起きる、というハナシになります。(後述しますが、「繰り返し起きる」という認識が、人間の仕組み上のトリック、嘘になるわけです)

実は不快であってもなくても、来るものは来ている、しかも、繰り返し来ている、ひとつひとつはっきりと認識できないほど数限りなく来ている。

 それらを意識化していない/できないだけ、ということを私達の多くが忘れ去っている。

…と言うか、そのことに気づいていない。

年明けに、私のところに「オレオレ詐欺」の電話がかかってきました。

詐欺話やオカシナ商売の鴨候補にされたならば、その相手をすることについて、不快とまではいかなくてもめんどくさく感じたとしても当たり前だと思うわ(笑)

その詐欺電話を引き寄せているのは私で、それが目の前にやってきたのだから、その件に関する責任は私にあり、課題としてそれに取り組まない限り、私を陥れようとする詐欺話が続々とやってくる、のでしょうか?

「オレオレ詐欺」でなくとも、不用品回収、保険や預金などの金融、〇〇乳業からヤ〇ルト、ダ〇キン、エ〇バの証人から朝起き会(実践倫理〇正会)、健康食品販売、塗装屋から工務店までの不特定多数がビジネスチャンスを求めてやってくる。

目の前には、いろんな人がやってくるけれど私はただ、自分にとっての必要性に応じて、淡々と流します。

「オレオレ詐欺」師は名簿を基に電話をかける。

セールスマンは、地域の家を回る。

どんな人も道を歩けば、いろんな人たちとすれ違う。

すれ違ったなかには、男も女も、子供も年寄りも、善人も悪党もいることでしょう。

中には、自分が道ですれ違う人を、意図を使って選択的に引き寄せている方もいるのかもしれませんが、世の主流は、ランダム(無作為)な仕組みの中にあるわけです。

あのイエス・キリスト、釈迦でさえも「???」な人達と、その人生において、たくさんすれ違っています。おかしな人達も、たくさん寄ってきたはずなのです。

何かに感情的な引っ掛かりを感じるとき、その理由は自分のなかにあるため、それに取り組むのはよいと思います。

しかし、生活のなかには、自分の意識が焦点を当てた「快/不快」以外の流れも多数あり、それらも、いろんな出来事を成しています。

それを踏まえると「取り組まないと、同じ出来事が繰り返される」というのは正しくないと言えます。似たような物事は、私達が取り組んでも、取り組まなくても、目の前に繰り返しやってきます。

嬉しいことであっても、イヤなことであっても、引き寄せだと思い込んでいることの多くは

A.「自分自身が繰り返し、あるタイプの出来事ばかりを引き寄せている」のではなくて

B.「あるタイプの出来事に対し、ある特定のパターンの反応を示す、を繰り返している」ため、「またこのパターン」という印象が強化されるのであり

Bに強く意識を向けることにより、あたかもAであるように錯覚してしまう、というのが実情です。

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