イスラエル旅行での気づき、第四弾です。

第三弾はコチラ



旅は、「アブラハムの井戸」を訪れるところから始まりました。

アブラハムは

その子孫の広がりにおいて

ユダヤ教、イスラム教、キリスト教を生んだ父と言えます。

 

その宗教を信じる人達による

今に至るまでの軋轢は、ご存じの通りです。

アブラハムの井戸
アブラハムの井戸。ここで輪になって瞑想をした
中を覗くとこんな感じ

さて、ブロックであるとか

カルマであるとかは

どこまで遡ることができるのでしょうか。

 

私が今、こうであるのは

人生における

こんなイベントが基となっており

さらに遡ると

過去生におけるこんなイベントが基になっている・・・。

 

・・・としたら、その過去生の基になったものとは?

 

どこかに必ず、因果を生んだ

何らかのトピックがあるのだとしたら

物語の最初の最初は、どこから始まっているのでしょう。

 

分かりません(笑)

 

ある方によれば

時間軸を遡って

横にスライドするタイプの癒し

(過去生や今生における過去の出来事に焦点を当てたもの)

は、単に痛みを軽減するだけで

(気分がラクになるだけで)

根本的な解放にはならないそうです。

 

今ここの瞬間を

ストーリーを放棄し

垂直方向に変容することによってしか

次元の上昇はありえないと。

 

それも分からなくはないですが

キャラクター設定があり

場面や登場人物などの各種設定がある

「私」という物語を生きている

普通の人間には、なかなか難しいことですね。

 

とりあえず、過去生において

その地に残した霊体のエネルギーを

訪れることで癒し

統合していくというのは、可能なように感じます。

 

自分のなかの、深い闇も噴出してきますけれど。

 

エルサレムの「嘆きの壁」

(ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁のうち、現存する部分。神殿はユダヤ教において最も神聖とされる建物であった)

の前で、ユダヤ教徒は祈りを捧げながら泣いていたりしますし

嘆きの壁。ユダヤ教徒が訪れる
「嘆きの壁」。ユダヤ教徒が訪れる

キリスト教徒は、イエス・キリストにゆかりのある場所で祈りを捧げています。

イエス・キリストが捕えられ、一晩吊るされたという穴
ペテロが「ナザレのイエスを知らない」と三度繰り返した鶏鳴教会には、捕えられたイエスが、一晩吊るされたという穴もある
パレスチナ自治区であるベツレヘム。私たちのドライバーがパレスチナ人であったことから、入ることができた。ユダヤ人は入ることができない
パレスチナ自治区であるベツレヘム。私たちのドライバーがパレスチナ人であったことから、入ることができた。ユダヤ人は入ることができない(バスの中から撮影)

パレスチナ自治区である

ベツレヘムの広場には、巨大なクリスマスツリーがありました。

 

イエス・キリストの生誕を祝うクリスマスは

ユダヤ教とは無関係のイベントです。

 

そして、エルサレムでは

決まった時間になるとスピーカーからコーランも流れます。

 

みなさん

一部重なったバックグラウンドをもってはいても

それぞれの宗教に基づいたストーリーを生きています。

 

私たちが滞在したときにも

日本では報道されない規模の

テロがあったようです(小さなテロは、しばしば起きるとのこと)。

 

因果でいえば

宗教や民族や土地を巡って

「やられたから、やり返す」という面もあるのでしょう。

 

しかし、因果を巡らせることで

何かが解決することはありません。

 

ストーリーや

「奪った者は奪われる」

といった時間軸での因果を持ち越すのではなく

垂直的な統合/変容が、やはり必要なのかもしれません。

 

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