とりあえず何かをすることで、自分が深いところで何を感じているのか、本当は何を望んでいるのかを自ら分からなくするという面が人間にはあります。



以前、不登校や引きこもりのサポートに携わっていたことがあります。

家から出てきてもらうために講座とか(料理/手芸/楽器)、レクリエーションとか(スポーツ/社会見学)を企画することが、その世界では少なからずありました。それはそれで有効なのですね。

「これをする」という目的もなく、人の目が気になるのに外に出かけるということは、彼ら/彼女らにとって非常にハードルの高いことです。

したがって「楽しいから一度来てごらん」という、お誘いをして「楽しかったな」という体験になれば、外に出て何かをしたり、興味をもったことを始めたりするのに、少しずつ慣れていくことの下地作りにもなります。

同様のことを、私達もしています。

「とっかかりとして」「暇だから」「何もしていないと不安だから」「何かしないといけない気がするから」「みんなが何かをしているから」「本当に求めているものが、何なのか分からないから」

→「とりあえず何かをする」

(これらは、本命でない異性と交際する理由づけに、似たところがあります)

大人が子供に「とりあえず何かをする」ように促したりもします。

「何もしていない」よりは「何かしているほうがいい」(何かをしていないのはダメな人)、「何かしているように見えているほうがいい」(何もしていないように見えるとマズイ)、「何かをしてさえいれば、道が開ける」(ズレていても行動していることが大切)と、なぜか思い込んでいるからです。

やってみたけれど「好きではない」「向いていないと感じる」「これではなくて、もっとこういうことをしたい」というヒントにもなるので、一概に悪いことばかりとも言えません。「行動」→「気づき」→「修正」を繰り返すことになります。

片や、よくないのは、こんな場合です。

すごく惹かれるわけでも好きなわけでもないけれど、惰性で続けていたり、人との摩擦を恐れて止められなかったりもするのだけれど、少しは楽しくて、ためになることもあるから「きっと私は、これをやりたいのだろう」と無意識のうちに自分を騙し、外側の御膳立てに適応し、ただ漠然と乗っかりそれを積み重ね、繰り返し、そのまま人生を終えていく。

(乗っかっていれば、何かがどうにかなるのでは、という逃避と依存をベースに生きている間に、タイムアウトとなる)

私はそれを本当にしたいのかどうか。

「何か役に立つことがあるかもしれないから」「みんながしているから」「それなりに楽しいから」といったアタマで考えた「したい理由」はどうでもよく、理由など分からなくていいから

自分は本当にそれを望んでいるのか。

それをないがしろにしたまま「とりあえず、何かをする」ことで、自分の深い部分に覆いが被さり、本当の気持ちが分からなくなってしまう場合が多々あります。

その場しのぎや、一時的に気持ちを紛らわすことに時間を費やすのではなく、何もせず、ただじっと自分の深い所を探り続けることが、長い目で見てずっと有益な場合もあります。

私は「好きなこと/したいことだけしていれば大丈夫」という宗派に属しません。(「好きなこと/したいことだけしていてもいい」けれど、誰もが「大丈夫」かどうかは保証しかねる)

したがって、積極的に進言をしません。(それが必要と思われる人には積極的に言う)

「私は、好きなこと/したいことだけをしている」と言う人のなかには、本当に好きなこと、本当にしたいことをしているかどうか疑わしいタイプが、かなり含まれています。

“自分の好きなこと” や“したいこと“ を誤解し“自分の真意“ に気づく機会を逸し、自分で自分を誤魔化している人が少なくありません。

「とりあえず何かをする」ことで、自分を見失うこともあるので「動き回り、その時、目に付いた何かをしていればそれでいい」と、思い込まないほうがよいと思います。

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