アゼルバイジャンで買った、この紅茶は非常に美味しい。世界において「茶」の言語圏はシンプルで、二種類に分けられます。「チャ」系か「テ」系か。こちらは「アゼルチャイ」なので「チャ」系圏。

アゼルバイジャンは、ざくろソースも誠に美味でした。今年再訪したいのですが、ツアー成立が微妙な雲行き。

「空(くう)」統合セッションは終了したものの、瞑想のマントラ伝授は続けています。「瞑想をするとよいことがある」と思って瞑想に関心をもつ方が多いです。「よいこと」の内容や定義は人それぞれですが、確かに「よいこと」もあります。日常において望む結果につながりやすくなったり、ストレスが減ったり。

引き寄せ力が強くなったりもします(惑わされる雑音が減るし、要らん動きをしなくなることが大きな要素のひとつ)。しかし、それらは “瞑想御殿” においては前庭にしか過ぎません。花や芝生がキレイだ、広くてリラックスできる、人々が笑顔で集まってくる、いろんなお店があってショッピングが楽しい。「いいところよね~」と前庭を讃えていても仕方なく、瞑想のキモは “館” のほうです。

この “館” に入ることはとても難しい。多くの人は前庭をウロウロしていることが楽しくて「こちらで銀食器を買ったから、今度はあちらで絨毯を見て、バラ園を堪能した後、カフェでお茶しましょう」とかやっているうちに生涯を終えます。そもそも “館” に入る人生を望んでいません。

一時的な欲を満たすことには成功しますが、次にまた別の何かが欲しくなります。本人の達成感や満足度はともかく、アチラからコチラ、コチラからソチラへと落ち着きなくウロウロしては、何かの獲得を喜び、目新しい何かを見つけ、次の標的や目標を定め、その獲得に腐心する。前庭を回遊しているだけの人生を送ります。

慈悲の目で見れば「気の毒でいたわしい姿」。毒舌を振るうならば「滑稽で愚かな姿」。私も引き寄せやら具現化やらが面白くて、関心をもって取り組んだ時期があるので、他者をどうのこうの言えませんが、そんな私も含め、気の毒でいたわしく、滑稽で愚かであることに違いはありません。

願望実現とか具現化とか、そういうことには意味がない、得るのではなく、ただただ捨てて行くことが瞑想の真髄であり、人間としての人生で「獲得できるものがある」と感じているとしたら、そちらのほうが錯覚である、と気づいた辺りでようやく “館” に入る準備ができたと言えます。

世の中に多く漂流しているスピリチュアル消費者は、何かを獲得したくて、アチラコチラにお金を落としていきますし「何かが欲しい人(不足感の強い人)」ほどお金を払うので業界のお客様としてはありがたい存在かもしれません。しかし真のスピリチュアリティの世界からは、かなり遠いところを生きています。

堅い文章で書いてきたので、読んで分かりにくいと感じる人がいるかもしれません。柔らかく書いておきますね。

「お金を払ってセミナーやら、セッションやら受けて気づきを得た気分になったところで、あなたはそれほど変化していません。生きている間に完全に満足する日も来ないし、意識が覚醒することもありません。趣味やレジャーとして、スピ系ビジネスのお客さんで居続けるのはよいと思います(どんな道楽をするのも、その人の自由だから)」

願望実現のツールとか引き寄せの手法とか、世の中のスピ系ビジネスにもいろいろな取扱い商品がありますが、意識の覚醒とは「ま~ったく関係ない」。まったくの別世界です。

オススメ関連記事: