このところ、休むことができて週1日あるかないか。昨日今日と久しぶりの二連休です。人間は週2日程度、仕事を休むべきですな、というのが実感。明日は朝から東京出張。再び忙しい一日になります。

昨日買物に行ったホームセンターで、ついでにラベンダーを買いました。向かって右のふたつはニケちゃん(の骨)の眠っている場所に以前植えたラベンダー。今回は左側のふたつを植えました。

1年前に作成したハーバリウムも、中に入れたものにオイルが浸透してトーンが落ちてきたので、先日、新たにユーカリやアザミ、リンフラワーを入れてみました。

1年前の姿はこんな感じでした

さて、以前の記事で「サイコパスは先天的なもの、ソシオパスは後天的に環境要因等で作られるものとされている」と書きました。

「サイコパス」と「ソシオパス」に限らず、先天的なものと後天的なものを区別することには意味がないと思うのです。

「親がああだったからこうなった」とか「生育環境がこうだからそうなった」とか、顕在化されている部分(目や耳などを通じて識別できるもの)に原因らしきものを探すことはできます。しかし、それらは誘因や促進剤だったとは言えても、真の原因ではない。この図を見てください。

素質や物事を生じさせる種子(因)があっても、それらを育てる環境などの後天的なものがなければ(因が縁に触れることがなければ)、「こうなりました」という結果(果)に展開していかない。種子は種子のままで、潜在的な領域に留まり続けます。

同じ親の元に生まれ、同じ屋根の下で育った兄弟が、違うタイプの人として育つことのほうが多いのは、それぞれが持っている “因” が違うし、違っている “因” に対して触れる “縁” のタイプも異なるため、現象化される “果” にもバリエーションが生まれる、ということです。

仮に「サイコパス」という “因” をもっていても、それが現象化するような “縁” に触れることがなければ「サイコパス」としての人生は歩まない。環境要因によって「ソシオパス」として成長したと思われる人も、ある特定の “縁” に触れたことによって、その性質が開花したわけで、元を辿ればそういう展開を生むような “因” を持っている。

好ましくない “因” の花を咲かせないようにするには、“因” を無くすか、“縁” に触れないようにするほかありません。“因” がなくなれば、どんな “縁” に触れても、望まない “果” を生むことがなくなります。

“因” をそのまま保持するとしたら、望まない “縁” に触れないようにする必要がありますが、“縁” に触れる、触れないは自分の顕在意識でコントロールできません。人間はマインドの理解領域を超えた『つながり』のなかで生きているからです。通常の人間の場合、意思や意図の力により、人間としてのレベルで、ある程度まで現実をコントロールできたとしても、存在レベルでの “因(カルマ)” をどうこうできません。

ということで、自分の状況が今、このようにあることの原因を、生まれたときから背負わされたとか、親が環境がこうだったからこうなったとか、細かく分類して探しても意味がないということです。実際には、日本に生まれていなければ、親が違う人だったら、長女ではなく次女として育ったら等、「たられば」に基づけば、私がこのように育ち、このように生きているのには『この世的な原因や理由』があるのですが、ある程度納得したら、そこは超えて行く(こだわり続けず、手放していく)ことを選択するのをお勧めします。

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