モスグリーンと白の塗料を「使い切りたい」話。結局こちらを塗りました。瞑想のプージャに使用しているテーブルです。かつて父親が折り畳み式作業台として作成したもの。天板の端を、これも手元にあるアクリル絵の具で金色で縁取るかどうかを思案しておりますが、とりあえずモスグリーン&白の塗料はほぼ使い切ったので、一旦これでよろしいかと。

さて前回は秋篠宮家の現在に触れました。一方で日本には今、中高年の引きこもりの人達が61万人いるとのこと。

秋篠宮家を形作っている背景要素を分解すると、引きこもりを抱えている家庭を形作っている要素とあまり違いがなかったりします。

秋篠宮家は揺るぎないソーシャルパワーをもっていて、そこに取り入ったり迎合したり、都合の良い時に引っ張り出したりすることで体面や生活が守られる人々の数が多いため「力をもつジャイアン」でいられます。庶民がピーチクパーチク騒いだところで自分達の生活をしたいようにできることに疑いがないため、卑屈になることも委縮することもありません。体面が守られるような段取りやストーリー作りが、周囲の関係者によって取り計らわれることが可能です。

一方で引きこもりを抱えている家庭は、秋篠宮家ほどの社会的影響力を持っていません。親が生きている限りは中高年になった子どもの面倒を見ることも可能ですが、親である自分達がこの世を去った後の子供の安心・安全な行く末を案じずにはおれません。こちらの人達は絶えず社会的脅威のなかにある「庶民ののび太」です。親亡き後も子供が生きていかれるように、自分達の年金などを使うことなく貯蓄に回したり、経済的/社会的な負担を軽減するため、引きこもっている子どもに障害者手帳を持たせることはできないかと画策したりします(私は一時期、引きこもりの人達の支援活動に関わっていましたが、そういう親は想像以上に多い)。「8050問題」とも言われています。親が80歳を過ぎて死んだ場合、残された中高年の子供のことを心配する必要などないと思うのですけれどね。日本には50歳を迎えることなく亡くなる人達も相当数います。人間は例外なく全員が必ず死にます。こちらの人達には御膳立てをしてくれるサポーターがいないことが多いので、親が子供のために生活基盤を整えて維持しようとします。

「力をもつジャイアン」も「庶民ののび太」も、現状維持(以上)を目論み、渦中の家族が社会的に不利にならぬよう、経済的に困窮せぬよう、道筋を確保し脅威を退けんとしている、という点で同じです。

前回の記事で、日本の人達の精神的特徴として「保身と慮りの違いをよく分かっていない」「事を荒立てず体裁を整えることをよしとする」「力をもった存在に従う/おもねる/長いものに巻かれる」を挙げました。

短期的視点では「大切な誰かが傷つかぬよう、思いやって何かをしている」ようでいて、長期的視点では「自分が傷つかず、痛い思いをせずに済むように計らう」ことをせっせと行なっていて、自覚がなくとも後者のほうが隠された目的だったりします。当事者も「どこまでが他者への慮りで、どこからが自己保身なのか」についての識別感覚が麻痺していて、よく分かっていないことが多い。また相手を思えばこそ、早い段階で庇護から切り離したほうがよい場合が多々ありますが「その先の展開がどうなろうと受け入れる」という覚悟をもつことは容易でないようです。

そういったパターンは、日本社会の随所に見られます。何も皇室や引きこもりを抱える家庭に限った話ではありません。ひとつのパターンの相似形が、いろんなところに表れているだけなのです。

私自身、皇室の方達が日本社会に何の貢献もしていないと思っているわけではなく、私の知らないいろんな面で助けられているのだろうと推察します。しかし皇室があることで、皇室に対して上手く立ち回ることで、メリットを得られる人達がいることもあって話が複雑になっていきます。

どこまで行っても自分達の作り上げた幻想のなかで生きているのが人間ですが、みんなで作り上げた共同幻想にさらなる力を与えることで膨らんだ妄想が、人々にとって、もっともらしく見える現実となり、それらをベースに一喜一憂する人生を送っているのが私たち、ということです。

どんな人にも尊厳があり、それに対し敬意を払うことは大切です。そうは言っても「皇族だから、ほかの人達に対してよりも多大な敬意を払わねば」「社会的弱者だから、ほかの人達よりも厚待遇にせねば」というのは、行き過ぎると不健全な精神性を作り出します。「何かは、ほかの何かより特別」という感覚は、人間の心に巣食う病根のひとつとなる場合があり、そこから自由になっていくことが大切と感じます。

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