私とニケ(2016年クリスマスイブ)

さて「選択のあり方」につきまして。

ニケは16歳の割には元気な犬でした。

この4~6月というもの、私には回ってきた自治会の組長の役目があったし、元気とは言っても、ニケはいよいよ老犬を極めてきていましたので、出張での仕事を除き、家で過ごすと決めていました。

ちなみに私たちの共存とは、同じ空間と時間を共有してはいるものの、互いに空気と言いますか、ベタベタしない関係性のうえに成り立っていました。

この4~6月の過ごし方を決めたとき、何となく、ニケは6月までにこの世を去る「感じ」がしていたのです。

この「ニケは6月までに、この世を去る」という選択は、誰が行なったのでしょうか?

私でしょうか?ニケでしょうか?もっと別の存在や摂理でしょうか?

このとき、既に何かが決定していたのであれば、それに向かってシナリオが進行したのが、これまでの流れなのかもしれません。

 

とは言うものの、ニケは普通に食べ、普通にノタノタと散歩し、普通に昼寝をしている日々でありまして、先にも書きました通り、急変したのは5月24日午前0時頃。

この急変により、私はかつての夫に「長くは持たないと思うから、お別れをするのであれば、早いアクションを」というメールを打ったのです。

メールを出すこともできるし、出さないこともできる。自由に選択できます。しかし急変した様子が死を予感させるものだったので、連絡をすることにしました。「ちょっと体調を崩したのかな」くらいの印象であれば、回復の希望があるのでわざわざ連絡しません。

「ここ5年以上、世話をしているのは私であるし、向こうは関わっていないのだから、知らせるまでもないや」という選択(判断)もあり得ます。今回の場合、あたかも自由意思の体を成してはおりますが、ニケの容態によって「連絡するという選択をさせられた」面があります。

かつての夫も、昔の嫁から連絡が来たからといって、「ニケに会いに行かない」という選択をすることもできました。しかし、2日後の土曜日には神奈川から愛知までやってきました。こちらを訪れた日は、たまたま神奈川から京都へと移動する予定であったらしく、その道すがらに立ち寄ることにしたようです。これも、あたかも自由意志に基づく選択のようですが、そのタイミング&スケジュール(状況)によって、後押しされたのかもしれません。

ニケは一旦急変はしましたが、その後、驚きの回復を見せます。こちらに書きました通り、少しずつ立ち上がって歩くようになり、最終的には普段の散歩ルートの後半(800m)を歩き通しました。

歩きたいところだけ歩くことができるようにとアウトドア用のキャリーを購入し、それが届いたのが、元夫がこちらに到着する直前で、手伝ってもらってキャリーを組み立てました。

これについても、私が「手伝って欲しい」と言うのも、言わないのも自由な選択であるし、向こうも「手伝ってくれ」と言われたからといって、了承するも断るも自由です(この期に及んで断る人は少ないかもれませんが)。組み立てたキャリーでニケがお散歩に出る写真を送ったところ、喜んでいたようなので、「手伝っておいてよかった(ニケの手助けをできてよかった)」と感じていたのかもしれません。

5月29日頃から、再び立ち上がること、歩くことが難しくなっていきました。24日以来、食べ物を口にしなくなったため、衰弱が進みました。腎臓の薬だけはなぜか飲んでいましたが、それも2~3日で終わりました。

5月31日⇒6月1日の明け方、私は自分のベッドで就寝しており、ニケのいるリビングにはいませんでした。私のハートの部分で輝く光の球のようなものが、力強く拡大し、その力強い拡大は、別室のニケの魂(あるいはハート)と重なってひとつに感じられました。今後、永遠に固定し続けるものかどうかは分かりませんが、私とニケのハートは安定的にリンクしました。ひとつのプロセスが完了したことを確信しました。

そのような経緯により、6月1日の夜は「そろそろなのでは」という予感があったため、ニケのサークルの脇で眠りました。そして翌朝5時55分、私の手のなかで静かに旅立ちました。

人間的な解釈は、色づけされたストーリーなので、そこにどっぷり浸かるのは禁物と自戒はしておりますが、ニケが私の負担を最小限にしつつ、急変から10日間、人間側に悔いのない過ごし方ができるようにチャンスをくれたように感じています。かつての夫も、生きている間にお別れができてよかったのではないかと思います。ニケが旅立った朝は土曜日でしたので、「その次の週末に時間を作って会いに行く」ことを選択していたら、生きている間に会うことはできませんでした。

私は自由意思や、自由な選択を否定しませんし、それが人間に許されているものならば、ぜひ積極的に活用すべきと考えます。

しかしその一方で、本当にすべてから独立した自由意思、何事からも影響を受けない自由な選択って、どのくらいあるのかしら?とも思います。

多くの場合「状況が選択を生む」のであり、それはすなわち「因果律」の世界です。

 

例えば西城秀樹(なぜここで西城秀樹なのかはともかく)。

彼は家出して広島から上京し、歌手になりました。「歌手になる」とか、「公務員になる」とかは、当人の自由意思であり、自由な選択であるかもしれません。しかし、家出して広島から上京しなければ、歌手にはなれなかったのかもしれません。

「歌手になりたい」という意思が、「広島にいたのでは無理」という状況を作り出し、「家出をして上京する」という選択を生んでいるわけです。完全に独立した自由意思が現実化するとしたら、「歌手になる」と決めたら、家までどこからかスカウトがやってきてもおかしくないですが、実際には状況によって「家出をして上京」という選択をさせられています。

「状況(させられる選択)」と「自由意志による選択(する選択)」は鶏と卵のような関係で、どちらが先かは見極めにくい、ということを、愛犬との10日間で私は感じました。

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