結論から言うと、彼らもブロック(メンタルブロック)を外さないと“あるがまま”にはなれず、“真の創造”を行なうことはできないということに、合意するのではないかと思います。




やや乱暴な理屈にはなりますが、改めて本を読んでみると、ブロック(メンタルブロック)の枠組みのなかで自分自身が操られているうちは、どう考えても、真の解放、真の理解、真の創造はありえないのです。

恐らくクリシュナムルティやOSHO(ラジニーシ)は、ブロックを外すことの形式化・儀式化を好まず、ブロックを外すこと自体の動機(恐れや不安に基づいていないかどうか)を重視して是否を検討するのではないかと思います。

しかし、メンタルブロックのこびりついた状態で、彼らが説く“真の実在”や“真理”に到達できないことに、疑う余地はありません。ではブロックさえなければ“真の”それらに到達できるのかといえば、そうとも限りません。

ブロックが消えていくことで「本当の自分」に還る道を辿り、それぞれが本来もっている質が開花していく、これは確かでしょう。

“真の実在”や“真理”がやってくるにあたり、彼らが指摘している、もうひとつの大きな課題は、人々の心が「過去」か「未来」のどちらかにあり、「今ここにある」ことができない、という点です。そして彼らに言わせると、「今」とは、「時間軸の上にはない」のです。

これについても、ブロックが消えていくことで「過去」への悲しみ、怒り、悔恨、執着も「未来」への不安、恐れもなくなっていきますので、「今にありやすくなる」とは言えるでしょう。

ただ「今ここにある」ということには「集中する」ということとは違った先入観のない注意深さが要求されるのです。ルーティンで行なっていることは、すべて無意識化された先入観とパターンを伴います。「朝は8時に起きる」でも「健康的な食事をとる」でも「風呂は夜に入る」でも構いませんが、生まれて初めてその体験をするかのごとくに毎度の行為を行なうことは難しいことです。

記憶は、精神活動の一部をなします。それが好ましいものであろうと、好ましくないものであろうと、ニュートラルなものであろうと、自分自身の記憶から自由である、ということが大切です。

好ましい記憶、そうでない記憶については、ブロック外しで扱う機会も多いのです。しかしニュートラルな記憶というのは、日常生活において何か弊害をもたらす、ということが少ないので、ブロック(思い込み)として扱うことが少ないように思います。

真の解放、真の理解、真の創造のためには、そういったニュートラルな印象(無意識のうちに習慣化したパターンのなかで生きること)も、減っていく方がよいのでしょう。

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