こんばんは~。

そしてお久しぶりです。

あなたの「空(くう/コンシャスネス)」を広げる案内人&草の根ブロガー、あつこです。



「新疆ウイグル→キルギス→カザフスタン→ウズベキスタン」の旅から帰ってきました。

この旅にて感じたことはいろいろあります。

小出しにしつつ、何回かの記事にしていきたいと思います。

 

人間って、ある程度、固定的な自分を生きています。

好き嫌い、キャラやパーソナリティ、人生観、価値観、何かが起きたときにどのように反応するか。

何かしらの傾向をもって生きています。

 

それらはすべて虚構です。

虚構があってはいけない

虚構を生きてはいけない、ということではありません。

虚構である、ということを知って生きているか、いないか、それが重要です。

 

この投稿のアイキャッチに使っている

この写真は、ウルムチからカシュガルへ向かう機内から

天山山脈を撮影したもの。

 

例えばですね

飛行機内をとっても

中国人の座った座席の足元は

とても汚いです。

 

ゴミは床に捨てるもの

という生活習慣が強く刷り込まれています。

(あるいは、ゴミをゴミ箱に捨てる、ということを教えられていない)

 

飛行機の床にゴミをまき散らしたのでは

ほかの乗客の皆様のご迷惑になって

人としていけないことだわ、という感覚がありません。

 

「みんなの迷惑を考えられない人って最低よね」

ということを言わんとするものではないことを

予めお断りしておきます。

 

私もあなたも

中国に生まれていれば

十中八九、ゴミを床に捨てるのが

超ナチュラルな人として生きることになるわけです。

 

今回、旅したところは

遊牧民族の多いエリアです。

 

家畜が経済を支え

人間の命をつないでいます。

 

これはカシュガルの家畜市場。

その脇には露店が出ていて

市場にやってきた人たちが

新鮮な羊たちを食べています。

私も(奢ってくれる人がいたので)食べてきました。

このおじさんの足元には

切断された羊の頭やら足やらが

これまたナチュラルに、てんこ盛りに積まれています。

 

このカシュガルの家畜市場では

切断された頭やら、足やらを撮影しなかったのですが

オシュバザール(キルギス)の肉売り場では

焼いた羊の頭が売られておりまして

そちらを撮影しました。

 

そして、オシュバザールの写真を

FBに投稿したところ

すごく興味をもって見る人たちがいる一方で

ゴソッとフォロワーが減りました(笑)

 

元々大した投稿をしていないし

FBでは、スピ系のことを語っていません。

 

期待をもってフォローした人にとっては

そもそも投稿記事が期待外れなところにもってきて

羊の頭の姿焼き写真のアップときた日には

フォローを外すことへの

絶好のきっかけになったのかもしれません。

 

(その写真は「いいね!」の数も比較的多かったので、反応がふたつに割れることが面白くもあった。それはそれとして、フォローを外す理由もいろいろだから、羊の頭とは何の関係もないのかも)

 

で、ですね、

肉を食べなければ生きてはいけないエリアでありながらも

肉を食べずに生きている人ならばともかく

 

現在、何かしらの理由により

肉を食べて生きている人たちが

「きゃー」とか

「かわいそう~」とか

カマトトぶるのが不思議なわけです。

 

イエス・キリストも言ったとされているではないですか。

「一度も罪を犯したことのない正しき者だけが石をぶつけなさい」と。

 

自分が実行犯ではない

というだけのことであって

肉を食べて生きているということは

生きている動物を殺し

頭や足を切断するということを意味します。

 

遊牧民に生まれていれば

家畜の肉が主食のような位置づけになります。

 

そして、遊牧民の子どもは

3歳から、馬に乗るそうです。

それが当たり前だからです。

 

(中国とキルギスの国境付近にて。犬は必ず馬の後ろにいる)

 

「えっ、補助輪付の自転車(+ヘルメット)ならばともかく、3歳で馬なんて危険極まりない」

と思ったとしても

それは日本での話であって

3歳から馬に乗る民族には

何の疑問も生じません。

 

今回の旅を通し

日本の人ほど

こちゃこちゃと

細かいことにこだわる民族もいないのではないか、

(よく言えば繊細。悪く言えばメクドクサイ)

という意を強めました。

 

別の土地で、別の民族に生まれていれば

まったく別の習慣や風習のもとに育っているわけでして

扉も、仕切りもないトイレで排泄するのも当たり前。

 

人間なんぞ

どうとでも育ちうるのであって

それは文化や環境に規定され

言い換えると

不変である

「これが私」

なんてものは一切ない、ということになります。

 

「本当の自分」とか

耳にタコができるほど

いろんなところで聞きますが

 

いろんな習慣

文化の枠のなかで

形作られた自分の

さらに奥にあるものが

「本当の自分」であって

表層的なところで

「本当の自分」をとらえようとすることはナンセンスです。

(つづく)

オススメ関連記事: