日も長く、暖かになってきました。嬉しい!



この業界付近でよく聞く言葉に「ジャッジしてはいけない」「ジャッジを止めよう」というものがあります。

わざわざ声高に反対意見を述べることはありませんが「ジャッジはしていい」というのが、私の考え。

「自分のジャッジを、他者に押し付ける」「自分のジャッジを示し、他者を変えようとする」「自分のジャッジで、自分や他者を責める」というように、ジャッジを道具に人を操作しようとするのはNGと思いますけれど

「ジャッジそのものは、悪くない」「二元の世界を、ジャッジなしに生きることはできない」と思います。

「ジャッジしてはいけない」「ジャッジを止めよう」と言っている人達がたくさんいますが、『ジャッジしていない』人を私はひとりとして見たことがありませんし、そういう方達のブログを読んでも、たくさんのジャッジの積み重ねにより文章ができ上がっていることが分かります。

ある人がある場面や状況において何かの視点、意見、価値観をもつ。そのこと自体が、既にジャッジとなる構造をもつという、二元性の世界で私達は生きています。

読書感想文だって、食べログだって「今日は楽しかった」「こんなことがあって幸せだった」「今日の彼女は美しかった」だってジャッジですから。

常に同時に、それとは反対側の視点

「楽しい」ならば「つまらない」

「幸せ」ならば「不幸せ」

「美しい」ならば「醜い」

という意見価値観を作り出し、ふたつでひとつの表裏をなしています。そういった二元の軸の片方だけが露出することをジャッジと言います。

 「ジャッジしてはいけない」「ジャッジを止めよう」と言っている人達が、ジャッジの何をそこまで嫌がっているのだろうか、と考えてみると

「ジャッジを、押し付けられた」「ジャッジを示され、変わることを強いられた」「自分のジャッジによって、自分を責めた」

つまり「ジャッジによって、イヤな目に遭った」「あるがままの自分を、否定されてイヤだった」「ジャッジによって、本当の自分を歪めて生きることになった」ということではないかと。

ジャッジは、生きていれば自動的に生み出されるものだから、いけないものと思いませんが、先にも述べた通り「自分のジャッジを、他者に押し付ける」「自分のジャッジを示し、他者を変えようとする」「自分のジャッジで、自分を責める」はよろしくない、というのが私のスタンス。(↑「よろしくない」というのも、立派なジャッジだよね)

「ジャッジした」とか「された」とか、その人の受け取り方や、心の癖によっても、感じ方が随分と違うのではないかと思います。

そしてまた「ダメな/デキる、あなたは素晴らしい」「太った/痩せた、あなたは魅力的」などと言う場合、「素晴らしい」「魅力的」とポジティブな表現であるにも関わらず、褒めたら褒めたで、それもジャッジに違いなく、率直な感じ方を表現すると逆に裁かれる「ノージャッジ」の世界は生きづらいと感じます。

アメリカは実のところ差別の多い国と思います。(アメリカだけではない)

しかし、教育や経済などにおいて社会の高い階層にある人は、差別・偏見の含まれていない「ポリティカル・コレクトネス」に則った言葉遣いをします。

「ポリティカル・コレクトネス」(政治的に正しい言葉遣い)と「ジャッジはいけない」には、共通した匂いがします。

言葉の使い方から分かるように「ジャッジ(judge)はいけない」は、アメリカ方面から入ってきた概念。

日本にやってきて浸透し、その意味合いが変化したかもしれませんが、辿ってみると、どちらも差別問題が深刻な地域からやってきたものです。

差別問題は「それぞれが公平・平等・対等に生きる」ために、中立的表現の問題を含む、大きな地域の大きなテーマとして扱われます。

《例》

〇「妻」「夫」「つれあい」「配偶者」「パートナー」

×「奥さん」「家内」「主人」「亭主」

〇「看護師」

×「看護婦」

ジャッジ問題は、より個人的、より細かな資質に関する要素へとフォーカスしています。

ジャッジを完全に止めようとしたら、言葉ごと失くすしかないのではと思いましたが、そこで「あるがまま」「ありのまま」という言葉の使い勝手の良さに気づきました。

《例》

×「デブ」

△「標準的な体重よりも重い」

〇「あるがまま」

×「底意地が悪い」

△「他者の幸せを揺るがすことを指向する性質」

〇「ありのまま」

ポリティカル・コレクトネスも「ジャッジしない教」も『人間のもつ尊厳を尊重する』ことにおいて、評価的表現を避ける、という点が共通しています。

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