いろんなところに相談に行くのが好きな人というのがいます。



私には、かつて引きこもり・ニートと呼ばれる人たちの支援活動に関わっていた時期があったことは、ここにも何度か書いています。

そういった当事者や親を対象とした、無料の相談窓口が自治体事業にはいくつかあります。

火曜日はここの無料相談、木曜日は別のところの無料相談、月に1回はさらに別のところの無料相談・・・というように相談を渡り歩く“相談ジプシー”がいます。

各無料相談を担当する相談員・カウンセラーは、それぞれ別の人物です。

可処分所得の多い引きこもり・ニートというのは、あまり多くありません。したがって無料で相談ができる、というのは魅力のようです。

“相談ジプシー”の親御さんというのは、ほとんど見たことがありません。当事者に目立つ現象です。

そして“相談ジプシー”というループに一旦入ると、彼ら・彼女ら自身の状況がよくなることは、あまり期待できません。

彼ら・彼女らが“相談”というカタチで求めているのは、相談員・カウンセラーに自分の話を聞いてもらうことだからです。

一般的な世間の人は、彼ら・彼女らの話に興味がなかったり、関わりに面倒くささを感じた場合、コミュニケーションをさっさと切り上げて遠ざかります。

相談員やカウンセラーは、当事者が求める限りは話を聞き続けます。

自分の話したいことを話し続けたとしても、決して拒絶されることがありません。

相談に行くこと自体に問題があるわけではないのですが、当事者(相談を受ける人)の状況がよくなったのでは、“相談を受け続けること”を維持・継続できません。

病気が治ってしまうと病院にかかれなくなるのと同じ仕組みです。

小康状態になったり、また悪化したりという波はあっても「可哀想な私」「こんなに大変な目に遭ってきた私」という前提を握りしめ続けます。

それを失ったとき、何を接点として人と関わればよいのかが分からないから、でもあります。

彼ら・彼女らは、心身に健全さを取り戻したとき、周囲の関心をつなぎとめることができなくなるのでは、という恐れをもっています。

健康になったがために、自分に対して無関心になられるよりは、具合が悪いがゆえに関心をもってもらえるほうがよい、という選択を無意識のうちにしています。

そして簡単に治ってしまったのでは、今までの苦しんできた期間を正当化できなくなります(アタマのなかの世界における、事象としての整合性を欠くってことですね)。

つまり「可哀想な私」「こんなに大変な目に遭ってきた私」というセルフイメージがなくなることに対して、潜在的に恐怖をもっています。

それが、人や社会との関わりのきっかけ作りとして有効なことを体験的に知っているからです(まさに潜在意識レベルのお話です)。

「気の毒な私」を一大アイデンティティとする人たちを、私は何人も見てきました。

引きこもり・ニートという状況を長期化させないほうがよいとは、よく言われることですが、上記のような理由により、長引くほどセルフイメージの書き換えに抵抗が生じ、短期間で決着をつけるわけにはいかなくなるのです。

長期化した状況を、ある日「もういいや」とポンと切り替えられるのは、自我を手放すことに成功した人です。

“相談ジプシー”は、家から出て相談に行くことができるくらいには元気とも言えますが、実際の成果はと言えば、首を傾げざるを得ません。

以上はひとつの喩え話です。根底にあるセルフイメージを捨てる気持ちがない場合は、上澄みのほうだけのクリアリング(ブロック外し)をしても、あまり効果は上がりません、ということは言えます。

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