ノン・デュアリティ(非二元)を言語で解説し、それを受けて知的理解に到達するのは難しいと思いますが、関心のある方は検索すると、いろんなブログや動画がヒットすると思います。



非二元には個(分離)がありません。私たちが「わたし」と思い込んでいるなかでの知的プロセス、脳内解釈によるストーリー制作やストーリーに対する意味付けもありえません。

悩む主体である「わたし」がない以上は個である「わたし」の悩みも存在しません。

全体(個にあらず)はすべてを包含しており完璧であり、「いい悩み」とか「悪い悩み」とか二元的なラベリングをするようなものではありません。

全体は分離していないので、そこに個別性(分離)を前提とした問題意識やジャッジはなく、ただ起きることが起きているだけ、と。

悩む主体としての個(「わたし」)が存在しないのだから「親が」「ダンナが」「恋人が」「上司が」「子供が」「仕事が」「お金が」というような「わたし」の対象があるかのように思うのは錯覚で、そこに由来する「わたし」の困りごとも「わたし」はないのだから錯覚となります。

「あなたが、あなたという個における悩みだと思っているのは、勘違いだったんですよ。なぜならば、あなたという個はないからです」ということで、この話題は終了。それが非二元。

多くの人は、文化/家族/環境/生まれ持った傾向/体験に基づく感情体験や思考形成によって“その人なりの歪み方をしたメガネ”をかけ、“自分(個)だと思っているものの内外”を観るわけです。

意識に関するツールはいろいろあり、大抵は、

①その歪んだメガネが「歪んでいること」に気づきましょう、

②「歪んでいること」に気づいたら、そこにパワーを与えるのを止めましょう(歪んでいるんだからさ)、

③モノの見方や解釈が変わったら、人生の感じ方や、そのなかでの体験が変わりましたよね? 

という流れをもっています。

そして何をどのように捉えるか、それをもとにどんなアクションを採るかについての自由意思と選択により人生を変えることができ、願望も成就する、というストーリーになっているのではないでしょうか。

非二元では自由意思や選択というものがなく(自由意思をもったり、選択を行なったりする「わたし」はいないから)二元の世界(?)で私たちが主体的にもったり行なったりしているかのようにみえる自由意思や選択も「ただ起きていること」とされます。

わかるような、わからんような非二元ですが、潜在意識を含む“意識のなりたち(認識の枠組み、ブロックや解釈・意味付け)”に対し既に私は、あまり関心がありません。

現在はまるっとトータルでの意識の世界を体験に基づきながらどう扱っていくかのほうに関心があるので、非二元の世界観も面白いと感じます。

あるときから「メガネが、なぜ、どのような理由により歪んだのか」「ならば、歪んだメガネをどうするか」といったことについて興味がなくなってきたんですよね。

エネルギーに個別性はなく、みんなが繋がっている、そのエネルギーの濃密度が「一見個体」を生み出している、というのは、体験的に分かります。

生まれて間もない頃(この頃が叡智MAXだった)人は人として見えず、光として見えました。そして、その光には濃淡があり、人と人の間には、つながりがありました。

本当はいない「わたし」というのも、体験がなければ単なるコンセプトに過ぎないので、無意味にそして無邪気に、楽しめばいいと思っています。

オススメ関連記事: