こちらはイスラム教シーア派最大の聖地マシュハド。私の経験においては、イランは政治的、宗教的ドンパチがなければ、むしろ治安のよい部類に入ります。写真からも伝わるかと思いますが、暗さも重さもない。人々も抑圧された面はあっても、陽気で親切。歌うこと、踊ることも好き。

こちらは同じくイラン、ヤズドのゾロアスター教(拝火教)寺院。2500年以上燃え続けている「聖なる火」。

ゾロアスター教が、イスラム教よりも優れているのは、「信仰の自由」「改宗の自由」を認めているところだと、私は思います。

イスラム教は「改宗」を認めていないし、親がイスラム教を信仰しているならば、その子どもも自動的にイスラム教徒という枠組みに入ります。イスラム教徒と結婚するには、非イスラム教徒のほうがイスラム教に改宗しなければならない。したがって、イスラム教徒の人口は増えることはあっても、減ることがない仕組みになっています。

実際にはイスラム教徒という枠組みにあっても、その神や教えを信じていない人達が存在するようで、さもありなん、という感じです。

今回の旅行に当たり、トランスコーカサスの生んだ神秘思想家としてグルジェフという人がいる、ということを知りました(名前だけは以前見聞きしたことがあった)。帰国してから関連書を若干読むと(彼の著作を読破するのは、かなりの苦行・笑)、私がブロック外しや潜在意識のクリアリングに関心を失っていったことについて、彼の概念を用いると説明しやすいことが分かりました。

ブロックを外すとか、潜在意識をクリアリングするとかというのは、「人間(自分)」という機械を、機械自身が掃除するようなものです。パソコンには、使わないプログラムをアンインストールしたり、断片化された情報を配置し直してパフォーマンスを上げたりするプログラムが入っています。それと同じです。決まった曜日や時間に起動することもできるし、気の向いたときに、そのプログラムを走らせることもできます。例えばアクセスバーズも、「脳の情報を断捨離する」「ハードディスクの不要ファイルを消去するようなもの」と表現していますね。

メンタルブロックを外さねばとか、潜在意識に不要な動きをするものがあるからどうにかしたい、という人の多くは、自分のことを機械と自覚していないだけで、実際にやろうとしていることは「自分という機械」のパフォーマンスの向上なのです。パフォーマンスが向上することの成果を、人間関係が良好になったり、ストレスや不自由感が減ったり、仕事が上手くいくようになったり、稼ぐ金額が増えたりする、といったところに期待しています(パソコンの場合は、処理能力が高いこと、意図通りにサクサク動くことをパフォーマンスが良いと言います)。

「自分は受け取れるはずのものを受け取ることができていない(私の人生のコストパフォーマンス[労苦 対 成果]の上がらなさは何なんだ)」と思う人ほど、ブロックや潜在意識というテーマに引き寄せられていきます。

グルジェフは言います。「人間は反応するだけの機械である」と。

よく自分を観察してみてください。理性も感情も、肉体も、受動的に反応しているだけです。そのパターンが、各人で、またそのときどきの個人において異なるので、人間が「多様性に溢れた自由意思をもつ存在」に見えます。

何かが刺激となって快や不快、好きや嫌い、怒りや喜びなどの感情や肉体的な感覚が起き、何かが刺激としてあるから考え(思考)という活動が生まれているだけで、人間は自発的に何かを生み出すことがない。そこには統合されていない、機械的な反応(パターン)があるだけです(人間という機械は、自分のことを統合された存在だと思っているかもしれないけれど、実際には統合などされていない)。

何かを創造しているつもりであっても、それは反応としての創造であって、真に能動的で自発的な創造を行なうことができないのが、人間という機械。だから「ゾロアスター教は改宗の自由を認めているから、イスラム教より自由度が高くていいね」と感じたとしても、実は信仰に関しても、受動的反応から離れた自由意思など持ちえないのです。機械という「制限された機能」の範疇での「一見自由であるように見える意思」が、刺激を基に受動的に形作られているだけ。

機械がせっせと、自分という機械を掃除しても、機械としてのパフォーマンスが上がりこそすれ、「覚醒」とは無関係です。それを理解していれば、パフォーマンス向上の道を選択して問題はありません。人生のもろもろが、機械のパフォーマンス向上によって、上手く回っていくようになると、自分が「覚醒」したかのような錯覚を覚え、そのような言動を採る人たちが現れます。しかし「機械としてのパフォーマンスがよい(上手に性能を磨いてきた機械である)」ことと、「覚醒する」ことはまったく別のことなのです(パソコンが最大限効率的&効果的に動くように整えられていたとしても、「パソコンが覚醒した」とは思いませんよね?)。自分が「機械」であることに気づくことがない限りは、仕方のないことかもしれません。

「機械としての人間」が、人生に苦しみを覚え、あるいは欲を持ち、「自分という機械の中を掃除して、自分という機械の、望む人生に対するパフォーマンスを上げよう」と堂々巡りする、循環参照的な行為に私は絶望したので、そういう事柄に極力関わらないことに決めました。したがって、ブログを始めた頃はともかく、現在の記事はそういう内容になっているはずです。(つづく)

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