「あたしおかあさんだから」という曲の歌詞が物議を醸している。

私は「おかあさん」ではないので、歌詞を読んでも「へ~」で終わりであるが、どの辺りが人々の不興を買ったのかに、若干の関心をもった。

サラっと歌詞を読んだ感じでは(作った人に申し訳ないが、真剣に読む気にはならない)、昔流行った「一杯のかけそば」の話と似ていませんかね、構造が。



ストーリーの根底にあるのは『トレードオフ(一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという 状態・関係)』の仕組み。

『女』をやりたきゃ、『母』を捨てねばならない。

『母』の役割をまっとうしたければ、『女』を楽しもうなんて望みは捨てなさい。

昭和の終わり頃、働く女性が増えてきた時代で表現すると

『キャリアウーマン』になるか『専業主婦』になるか、『自分で稼ぐお金やキャリアを取る』『男性を支える生き方を取る』か、みたいな二者択一。

身体がひとつしかない以上、『同時に複数のもの/ことを、自分に都合よく成立させることはできません』という教義も、あながち嘘とは言い切れない。

「一杯のかけそば」というお話の場合、『手持ち150円では、母と子合わせて3人いようとも、注文できるのは一杯だけ』。(財布に150円しかないわけではないだろうから、そばに対する予算が150円ということだろう)

『150円』が財布から消えることで、『一杯のかけそば』を得ることが可能になる。『150円』を持ち続け、かつ『一杯のかけそば』を得るには、何かしらの特別な手段が必要である(御馳走してくれる人を見つけるとか、そば屋で働いて“まかない”で食べるとか)。

夫(子からすれば父)を亡くした、その母子にとっては、年1回『1杯~多くて2杯のかけそば』を3人で分かち合うことが、何かしらの心のバネになっていて、大切な結束のイベントだったのかもしれない。(この手の話は、推測しなくてはならないことが多すぎる)

『大晦日には、亡き夫(父)の好きだった店で、そばを食べる』。そうすることで、ほかのことに使う時間やお金、別の何かを体験する機会をひとつ失う。

大晦日になると来店する母子3人は、毎年、人数分よりも少ない数のかけそばを注文していたが、あるときから来店しなくなる。

いや~、良かったね~。

ほかに意識を向ける対象、大晦日の有意義な過ごし方を発見したんだね!!!

どうせ時間やお金の『トレードオフ』として何かを体験するのなら、ほかに優先することがあるよね!!!

子どもたちも思春期になり、母親の気持ちに寄り添って「1~2杯のかけそば」を3人で分けることなんてしたくないし、食べた気にならない度合いが年々増すよね!!!(故人の好きだった店に、そばを食べに行くなんて、子どもの考えによるものとは思えない。すなわち母主導)

昔を思い出し、死んだ夫(父)との人生をなぞりながら、満腹にならない少量のかけそばなんぞを、毎年大晦日に食べ続けているとしたら、この母子のメンタル面の行く末を心配してしまう。

結末は、次のような感じ。

大晦日の母子来店がなくなってから長い年月が経過し、大人になった子どもふたりとお母さんが再びお店にやってきた。初めて3人分のかけそばを注文した。

お話の締めくくりは、人間として、健康度のより高い行動だと思う。

「自分達も成長した。人並みの生活もできている。あの、昔の店に行ってみようか」。家族の懐かしい思い出、苦しかった当時の自分達を振り返って愛おしむ。心には、決してラクで楽しいことばかりではなかった過去を、愛情をもって見つめられるだけの “ゆとり” がある。

「あたしおかあさんだから」も「一杯のかけそば」も、“今の” そして “きっつきつ” “やむを得ない” 『トレードオフ』の部分について、まるで素晴らしいことであるかのように、美談仕立てにしているから、思想や教義のようで、おしつけがましく、気持ち悪く感じられるのではなかろうか。

『今は服もご飯も全部子どもばっかり』なのも、『一杯150円のそばを3人で食べる』のも、そのこと自体は特段美しくない。そうするほかないから、そうしているだけ。

『今は服もご飯も全部子どもばっかり』なのも、『一杯150円のそばを3人で食べる』のも、ちっとも悪いことではないけれど、思い出して笑みがこぼれ、心が温かくなるのは、現在進行形の “今” ではない気がする。そして「そんな生活や体験のなかに、ありがたみを見出しなさい」と遠回しにせよ、他者が指摘するようなことでもないわけよ(そういうのを “お節介なお説教” と言う)。

「おかあさんだから」も「一杯のかけそば」も、その内容が気に障る人達もいる一方で、提示している価値観&世界観が、好きでたまらない人達もいるんだろうね~。とは思う。

オススメ関連記事: