普段、テレビを見ることはないのだが、出張先のホテルで見ることがある。

このところ、時節柄、オリンピックの競技やインタビューを見る機会があった。



そして “傲慢” と “謙虚” について考えた。

私は “謙虚であること” を、さほど素晴らしいことと思っていない。“謙虚” の度が過ぎる人と接していると、次第にイライラしてくる。一方で “傲慢な人” もウザく感じることがある。

“謙虚であること” と “傲慢であること” が反対の意味をもつと仮定して、両者のちょうど中間の、「0(ゼロ)」のポイントが、すなわち「自分というものを知っている」という状態である。

「自分というものを知らない」人が、“謙虚” になり、“傲慢” にもなる。そのふたつの間で、状況によって揺れる。

「自分というものを知っている人」は何を語っていても、“卑屈” で “自己評価の低い” 類の “謙虚” になることがなく、“勘違いに基づく舞い上がり” の “傲慢”の状態に陥ることもない。「自分の長所も短所も、強さも弱さもよく知っている」からだ。

「自分の言葉で語る」ことは、“謙虚” と “傲慢” のちょうど中間「0(ゼロ)」の人にとっては難しくない。「自分というものを知っている」からである。「自分の言葉で語れない」「自分の言葉をもっていない」人は、“謙虚” か “傲慢” のどちらかに振れる、またはその両者を行き来することが多い。

オリンピック選手のインタビューなどを見ていて、「自分の言葉で語ることのできない」人に深みを感じることはないし、言葉にその人の血肉とのつながりが感じられない分、美しいことを言っていても響かない。

見方を変えると、偉業を成し遂げたわけでなく、目立つ存在でないとしても、「自分の言葉で語れる」人の話には耳を傾けるに値する、何かがあるのかもしれない。

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