人間が90歳以上まで生きるケースが珍しくなくなっている昨今、ペットの犬なども長寿になってきている。

回復の見込みのない怪我や病気に見舞われたとき、飼い主の意思によるペットの安楽死はアリかナシか、というような議論をネット上で見かけた。安楽死反対は、西洋よりも日本で多いような気がする。



イギリスのエリザベス女王はコーギーが大好きで、何十匹も飼ってきたが、その中には「回復の見込みがない」という理由&判断により、安楽死させた愛犬たちもいる。西洋は、人間の都合で足の短い犬、鼻の短い犬などを作ってきているわけで、そのベースには『自然とは、人間が支配・管理するものである』という考え方がある。だから、ペットの死も、日本に比較すれば飼い主がコントロールしてよい事項のひとつとなる。

片や日本には『自然と人間は、互いに共存共栄していくものである』という価値観が伝統的にあり、柴犬とか、甲斐犬とか、秋田犬とか、土佐犬とか、代表的な犬種があったとしても、そこから何らかの能力や特性を強化することを目的とした、派生的かつ意図的な交配が行われてこなかった(のではないかと推察する)。

互いを尊重し、侵犯しないという共存共栄のマインドが根底にあるため、日本ではペットの死を、飼い主が決定するということに対し抵抗感をもつ人が多い。幸い、うちの16歳の犬は、今のところ元気なので、そういった判断の岐路にはない。

私は、もっている死生観があまり一般的ではないので、それが人間であったとしても、死を迎えることを気の毒と思うことが少ない(生まれてきた人は、全員が死ぬ定めにある)。何歳で、どんな亡くなり方をしたとしても、今生においてはそれが宿命や契約だったのだろうと、捉えている部分が大きい。「あのとき、ああしていたら、もっと長く生きられたのに」という発想が私にはないし(「あのとき、ああしていたら」はあり得ないことだから)、アレコレ考えたとしても、マインドのなかでの空想に過ぎない。

人間の葬式、法事といったものは、生き残った人達の気持ちの整理、故人との関係性の捉え直しといった、この世に残された側のセラピー的な要素を多く含んでいる。同様にペットの安楽死も、残される人間の気持ちや世界観との関係のなかで、『その家族として、どう捉えるのか』を土台として判断するほかないだろう。

私も自分の犬を大切に思っているけれど、人間が感じる犬の気持ちというのは、人間的思考の投影であることがほとんど。犬は人間と同じ理屈に基づいて「死にたくない」とは思わない。「死」についてアレコレ考えることすらない。だから、安楽死を選ぶかどうかも、犬の気持ちを慮ってというよりは、人間側、すなわち自分の気持ちの整理の問題である。

安楽死を選ぶのは無責任、片やすべてのエネルギーを愛犬や愛猫に注ぎ込むのが素晴らしい、という、明確な区別はない。何であれ、そういう選択をする自分を「無責任で薄情」と感じるかどうか、「ペットとの間に思い残すことのない、素晴らしい飼い主であった」と自分を認めることができるかどうか、それらはあくまでも飼い主自身の問題であり、ペットの側のテーマではない。

「もしあのとき、もうひとつの選択肢を選んでいたら」という、「たられば」は、現実には起こり得なかった、想定上の可能性に過ぎない。常に、その瞬間に採りうる選択はひとつである。「たら」とか「れば」のほうを選択する余地は、そもそも存在していなかったのである。

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