おとといは、日帰りで東京出張。各地で連日のように「観測史上初」の気温が報告されているけれど、結局のところ、私の今住んでいるところのほうが暑い気がする。気温が高いのみならず、日差しが刺すようで皮膚に痛みを感じる。

エラー表示が出て止まってしまうエアコンも、メンテナンスの方がやってきて、原因が「ガス欠」であることが判明。ガスを充填したうえで「ガス欠になるのにも原因があり、それを特定するための作業をしたので、しばらくしたら確認にやってきます」とのこと。

さて毎度、いろんな海外ドラマを「面白い、面白い」と言っているけれど、「スパルタカス」も面白い。ただし、エログロが強烈なので、それらが苦手な人には向かないかもしれない。

シーズン1でスパルタカスを演じたアンディ・ホイットフィールドは、40歳という若さで病死(それ以降のシーズンは、別の俳優がスパルタカスを演じた)。40歳での病死については、個人的な背景がいろいろあってのことと思うが、描かれている、この時代やそこに生きた人達のカルマを、スパルタカスを演じ切ることで持っていった感じもしなくはない。そして人間たるもの、長く生きればいいというものでもない。

「スパルタカス」を見て気づいたのは、記憶にある過去生のひとつの “ある部分” が、このドラマの描写とかなり重なっていたということ。私には、いろんな過去生の記憶があるが、そういう “My 与太話” は “放置するに限る” を基本姿勢とし、他者に話すのは必要最小限、“思い込み・妄想・想像の産物” という箱に整理分類することにしている。

今回の過去生の記憶は、ドラマとは時代や舞台が若干違うのだけれど、細かく覚えている内容とかなり一致し、「過去生の記憶というのも、ものによっては信憑性があるのかもしれない」と思った次第である。

「過去生のカルマ的部分に関する人物が、今の人生で登場する」ということが過去に何度かあり、そういうとき、私はそれらの人物に対し、いろんな感情をもったが、その根底にあったのは執着である。関係性に執着することがなくなると、そのカルマの保持するエネルギーが無へと回帰し、ふたりの関係性を操っている、見えないつながりも消えていく。

ゆえに他者との関係(自分が相手に対し「何をどうする」といったことや、関係を維持すること)にこだわるのは、当人が「愛」「思いやり」あってのことと感じていても、100のうち99までがカルマ的執着だと思う。

「スパルタカス」の時代、奴隷を剣闘士に仕立て、その死闘を眺めることが娯楽であり、エゴや劣情のエサとして剣闘士以外の人間の命も都合よく軽く扱われた。上流階級の腐敗ぶり、上流に入りたい人達の狡猾さにも、それを隠そうとしない正直な “なりふり構わなさ(下品さ)” があり、エゴ(私利私欲)や劣情を正直に極めていくと、こんな感じの社会や人間関係になるのだな、ということが伝わってくる。

そんな軸を起点として、日々の出来事を繰り広げているのだから、奴隷であろうと、支配階級であろうと、(その立ち位置での生き方や意識が重要ということはとりあえず置いておき)日々莫大なカルマを作り出しているわけだ。自分が誰かの皮を剥げば(「ゲーム・オブ・スローンズ」でもしばしば登場するシーン)、自分も腕を落とされたり火あぶりにされたりするのかもしれず、一見不条理でも、それで釣り合いが取れている面もある。

少し前の記事でも書いたが、私の母親には子どもを虐待する傾向があった。子どもを物置に閉じ込めて外からカギを掛けて放置したり、家から閉め出して中にいれなかったり、「子どもは犬猫と同じだから、身体で分からせないといけない」と体罰も積極的に行った。通りすがりの人や、近所の人が「もう勘弁してやってくれませんか」と助け舟を出すことがあったくらい、見とがめられるレベルのこともした。医療的な診断で精神に異常が認められる状態だったわけではないが、もっと広い視野から見れば「狂った母親」のひとりだった。

しかし、その元に生まれた私にも、転生におけるいろんな人生のなかで立場を交換しての似たような体験があったのだと思う。「虐待されても/ひどい扱いを受けても因果応報なのだから仕方ない」ということではないが、細かなレベルに分解していくと、残虐の小さな芽は、どんな人のなかにも存在する。

よきにつけ、悪しきにつけ、自分の蒔いた種は自分が刈り取ることになる。今は「蒔いた種」から「刈り取り」までの時間が短くなってきているので、「過去生がどうのこうの」を持ち出さなくても、今生のなかでの因果関係が非常に分かりやすくなってきている。

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