カナダから帰ってきました!帰りの機内で「ベン・ハー」を3回見ました。

私はストーリーの呑み込みが悪いので、何回か見ないと、どういう映画なのかが分かりません(特に洋画)。

「いろんなことが、ただ起きているだけ」(どこかで聞いたような・笑)という風な認識はできるのですが、そこにまとまりや文脈を見出すのに時間がかかります。

ところで、この「ベン・ハー」。タイトルを聞いたことのある、あの大昔の映画だと思って見ていました。(↑明らかに最新技術による映像だろうが。とセルフで突っ込み)

後でインターネットで調べたら、日本公開が2017年予定という新作なのですね。(私の見た「ベン・ハー」は、機内視聴向けに編集されていて、特定の宗教を礼賛しているかのようなテイストについては削ぎ落しているようです。イエス・キリストも登場しないし、残虐シーンの一部もカットされています)

原作を読んでいない、昔の映画を見ていない、聖書をモチーフとした重要な部分がたくさんカットされているとおぼしき新作しか見ていない。という三重苦を前提に「ベン・ハー」を出発点とし「人間は時代を経るに伴い、成長してきていると言えるのかね?」ということについて語ることにします(一部ネタバレあり)。

ジュダ・ベン・ハーは、ユダヤの貴族の息子。メッサラは、ローマ人の孤児で、ベン・ハーさんの家に引き取られました。ジュダとメッサラは、義理の兄弟という間柄。

ジュダは、何の不自由もない豊かさのなか愛に恵まれて育ってきた人なので屈託がなく、人道的で慈愛に満ちています。ひねくれた反応や解釈を一切しません。

ローマ人孤児出身のメッサラは、生家の汚名(祖父がジュリアス・シーザーを裏切って処刑された)を恥じておりまして、ひとかどの男になるために、息子として遇してくれていたベン・ハーの家を自らの意思で去り、ローマの志願兵となります。戦地から戦地へと渡り歩き、何万人単位で敵や民を殺戮していきます。

「お金なんて、幸せとは関係ない」「争いは、憎しみと不幸しか生まない」とか、美しいことを何の疑いも持たずに言い放ちますが「生きていくにあたり、苦労もなければ、働く必要もない大富豪のお前が言うな!」と言ってやりたくなるところが無きにしも非ずのジュダさん。

一方で家系の(血に流れる)汚名、孤児という立場などから請け負ってきたメンタルブロックや影やコンプレックスを克服したいメッサラさん(多少の哀愁あり。ヘッダー画像参照)。

このふたりは、メッサラが軍功を上げたローマの兵士としてエルサレムに帰ってくるまでは、血のつながった兄弟以上に仲良しでした。

でまあ、いろいろありましてふたりは敵対関係となり、ボンボンだったジュダは5年間、奴隷として船の漕ぎ手という苦役を務めることになりますが、奇跡的にエルサレムへと戻り、ふたりは戦車レースでそれぞれユダヤ代表、不滅のローマ代表として戦うことになります。

ジュダが驚異の底力で勝ち、メッサラは大けがを負います。

敗者メッサラはジュダに悪態をつき「必ずお前を殺す!」と剣をサヤから出して威嚇するのですが、ジュダはひるまず「これ以上、憎しみあいたくない。もう、これ以上戦えない。覚えているか、昔、俺が落馬して大けがをしたとき、お前がひとりで俺を運んでくれたことを。今度は、俺がお前を運ぶ」と、メッサラを抱きかかえようとします。

すると、それを待っていたかのようにメッサラもジュダを強く抱きしめます。涙を流し、互いに赦しを乞います。

私が見たバージョンでは、大きな赦しが起きたことによりさらなる奇跡が起きるのですが、オリジナルなバージョンではどんなふうに描かれているのかは分かりません。

 

説明が長くなり、ネタバレも若干含みました<(_ _)>(オリジナルバージョンと、機内放送バージョンとでは、多少なりとも違うストーリー仕立てになっていると思います)

この人たち、確かに散々な目に遭ってきてはおりますが、ならば最初から最後まで何事もなく美味しいものを食べ、彼らの神の祭りで楽しく踊り、幸せに暮らしているだけ、のほうが良かったんでしょうか?

ジュダは元々愛に溢れた人。高潔であり、勇気もあります。メッサラも高潔で勇気のある精神性をもった人と感じます。

しかし「自分に流れている血の汚名を挽回して、ひとかどの男になりたい」と自らに思わしめるブロック、コンプレックス、先祖から引き継いだ負の遺産があるため、それらの解放と昇華のため兵士となり、過酷な戦場で生き抜き、誇りと名誉を獲得/回復する必要がありました。(あくまでも彼のなかにだけあるニーズですが、それが彼を動かしています)

ブロック、コンプレックス、先祖から引き継いだ負の遺産がなければ、志願して兵士になり、過酷極まる戦場に赴く、という選択をあえてすることはなかったでしょう。

当時、ブロック外しというツールがあれば(←ここは冗談です)それを活用することで、わざわざ戦争に行かなくてもエルサレムでの貴族の養子としての豊かな生活を享受し続けることが可能だったかもしれません。

でも、ローマ兵士になり、生きるか死ぬかの戦地を歴戦し義兄弟であるジュダとは敵対して一騎打ち。

互いが互いへの憎しみをバネに生死をかけて徹底的にやり切ったところで、大いなる赦しと奇跡が起きる。それで良かったようにも思うのです。(かつてのふたりが、強い信頼で結ばれていた、という前提あってこそ、という側面はあります)

そこにはジュダによる「すべてを明け渡した愛」という触媒が必須であり、それがなければ展開がまったく違うものとなっていくことは確かなので、あくまでも“結果オーライ” ということです

社会や政治の制約の大きさ、犯してきた罪の重さ、消えることのない憎しみ、そのなかで自分を「やりきる」。

「悪人正機説」というのが仏教にもありますけれど、背負う罪が大きければ大きいほど、一旦明け渡しが起きれば、赦しもその瞬間に莫大な規模で起こる。そんな印象を残した映画でした。

「自分だと思っている自分(エゴやセルフイメージ)」が大崩壊すること(=明け渡し)は決して悪いことじゃないよね、と。

今の時代、戦争に行かなくても、略奪しなくても、何万人も殺さなくても、食うや食わずの奴隷船に乗せられなくても(これらすべて、誰もが、したくてしているわけではありません。しかし、社会や集団の大義の元に正当化されてきた行為の数々です)自分のものと思い込んでいる感情を味わい(先祖の不名誉を末裔が恥じる、というケースは上記のひとつ)自分自身のアイデンティティを確立し、さらには、そのアイデンティティやエゴからも自由になっていくことが可能なように思われますが、それがすなわち、時代や人間の進化である、とみなしていいんでしょうか?

 


(これは古い方の「ベン・ハー」です)

 

(つづく)

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