昨日は、打ち合わせにて日帰り東京出張。

帰りの新幹線は、混雑する時間帯でしたので、グリーン車にしました。

グリーン車では、おしぼり(使い捨て)の配布があります。名古屋駅で、座席に放置していくのもどうかと思い、手に持って降車したところ、タイミングよくゴミ箱に出会うことができず、駅構内の新幹線待合室までゴミを捨てに行くことに。

待合室が普段よりもかなり混雑していて、皆さん大きなモニターのほうを向いています。何が映っているのだろうと見ますと、フィギュアスケートの羽生結弦選手の演技でした。

どの選手がどう、というような個別的なことにはあまり関心がないのですが、例えばオリンピックというもの、ひとつとっても人生における注目すべきエッセンスが含まれていると感じます。


詳細な自己発見を日々繰り返す

常に探究している人達には、日々、多くの発見があります。

単純化して言うと、「昨日はこうだった」⇒「今日はこうである」⇒「昨日と今日の間で、感じる違いは何か」⇒「それは何によってもたらされたのか」⇒「だとしたら、明日は何をしてみるといいだろうか」の繰り返し。

常に、自分の心技体と、それに対する認識の擦り合わせを行なっていて、それが自己発見、自己改革、新境地への道を拓いていきます。

オリンピックを目指していなかろうと、運動をしていなかろうと、どんな生活を送っていようと、どんな人も、その人にとっての心技体と認識を通じ、自己発見、自己改革、新境地への道を拓く生き方が可能です。

万人が目指すべき、共通の高い目標はない

例えば、何か運動をするのであれば、まずは学校の代表に選ばれるとか、次に地区大会で優勝するとか、さらには強化選手に選ばれるとか、キャリアにおける王道のルートがあり、まずは小さな目標を設定し、それを達成したら、徐々に大きな目標を設定していく、ということが、「運動をする者としてのあるべき姿」であるかのように感じるかもしれません。運動に限らず、人生のいろんな分野についても同じ。

その一方で、羽生結弦選手や平野歩夢選手のトレーニング法や信念・信条、メンタルを見習ったところで、ほとんどの人は「せいぜいこの程度」のところまでしか到達できません。まったく知識も知恵もないところで試行錯誤しているよりは、成功者のセオリーをなぞるほうが、効率がよく、間違いが少なくて済むのは確か。でも、それ以上でも、それ以下でもない。なぜなら、その人たちは羽生選手でも、平野選手でもないから。同じようにやりさえすれば、オリンピックに出場でき、メダルを獲得できる、というわけではない。

自己啓発やら、成功哲学やらであっても、学んだところで、社会的に成功していない人が山ほどいます。方法やスタイルを真似るだけでは、到達できない何かがあることに、目を向けないからです。

逆方向から見ると、方法やスタイルを真似るだけでは、到達できない何かがあることに目を向けないから、自分には適していない、どこかの誰かの成功を羨み、自分が『二匹目より、かなり後のどじょう』になることを夢見るような生き方になっていくと言えます。

何もしなければ何も始まらないことは確か。でも誰かや何かを真似ても、そして成功者と同じにやっているつもりでも、決して同じにはならないし、同じ結果を得ることもない(それは良くも悪くも、のどちら方向にもあり得る)。

オリンピックで金メダルを獲りたいならば、社会的に成功したいならば、その人にとっての道を探り、見つけるほかありません。

そしてある人が、何かにおいて、『その人としての成功』を成したい場合、オリンピックを目指すことが、あるいは社会に影響力をもったり、お金持ちになったりと、世の中で大々的に認められるような社会的成功が、まるで意味をなさない、という場合もあります。

詳細な自己発見を日々繰り返すことで、自分の進む道が見えてくる

コツコツとした自己探求、鋭敏な感性に基づく自己発見を繰り返していくことで、自ずと、自分自身が自分だけの道にあるという確信、自分としっかりとつながって生きている感覚を得るようになっていきます。

そうなると、「社会的な成功のための社会的な成功」を追い求めること、「承認欲求からくる成功欲求」は、少しずつ、消えていきます。日々を深いところから体験し、味わうようになっていきます。

マインドを通して、ハートを通して、身体を通して何が起き、何を感じているのか、それを常に味わって検討することが、自分の人生の成功につながります。他者から見て、それが成功に見えないとしても。

そして運動にせよ何にせよ、目標が「金メダル」や「高収入」であるように見えても、一流の人とは「社会的な成功のための社会的な成功」「承認欲求からくる成功欲求」を超えたところで、日々自分を探究しているのであり、一言で「〇〇メダルを獲った」とか「年俸何億円」とか、外側から目立って見えるところだけではない、きめの細かい人生を生きています。毎日を、ただぼんやりと生きている人達とは比較になりません。

そういう風に考えると、最近、よくニュースに取り上げられている「奨学金で自己破産問題」。

大学に進学するのは3人に1人くらいでいいと、私は思います。行く必要のない人達(この部分については説明すると長くなるので割愛)が、お金を借りてまで行くところではないし、今後ますますそうなっていくことでしょう。私の同じ大学(私学)の友人にも、奨学金で大学に通っていた人が何人かいました。しかし自己破産していません。制度として考えるのであれば、改善すべき点がいろいろあるのでしょうが、借りた人達にも見込みが甘いところがあったのではないでしょうか(報道されているケースを見ると、そう感じるものが多い)。

今の『奨学金』については、ネーミングを『教育ローン』に変更し、学力や学芸、何らかの技能に秀でた人達を対象に返還不要または低利の『奨学金制度』を設けるのがいいと思います。

かつて『モラトリアム(青年が社会で一定の役割を引き受けるようになるまでの猶予期間のこと。心理学者E.H.エリクソンが提唱した概念)』という言葉が流行り、主に大学時代やフリーター時代が、そのように表現されました。「『モラトリアム』というのも人生にあっていい」とは思いますが、4年間に数百万円をかけて『モラトリアム』しに行くような、「高校を卒業したら、とりあえず行くところが大学」というような時代は、そう長くは続かないでしょう。

オリンピックから、奨学金へと話題が移ってしまいましたが、オリンピックというイベントは、いろんな人達に、未来に向かう希望と勇気を与えます。すべてを含む人生において「見るもの、聞くもの、体験するものから、何を受け取るか」、それを決めるのは自分自身です。

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