一通りの水回り修理を終えたはずだったのですが、昨日、また一箇所、トイレタンクの外側に水漏れを発見しました。(以前は、漏れていなかったところ)

各所修理していくと、今まで、それなりにくたびれていた箇所のバランス(力関係)が変化し、最も弱いところに「ひずみの圧力」がかかる場合があるようです。

パイプの角度やパッキンなどを調整したら、一応直ったので、様子を見て、再び漏れることがなければ、そのままにしておこうと思います。



さて、NETFLIXに加入していて、サスペンスが好きだったら、「ベイツ・モーテル」はオススメのドラマのひとつ。

昔、ヒッチコックの「サイコ」という映画がありましたが、あれの前日譚(現代版)です。

モーテルの経営者ノーマンは、母ノーマの溺愛と支配のストレスにより、母のパーソナリティを自分の内側に取りこみ、自覚的な意図のないところで、もうひとつの人格として母を演じるようになります(すなわち、母として母になり切って生きる、母の言葉を聞いた気がして、その指示通りに行動する等)。そんなノーマンの青年期に関するドラマです。

ノーマンを演じるフレディ・ハイモア(25歳)の、演技力の高さにも驚かされます。

※この画像を見ると、私があたかも「ホラー&スプラッター」を好む人間のようですが、そうでもないので誤解なきよう(笑)

 

ノーマンは、ときどき意識を失い、ノーマンの意識と入れ替わるかたちで、母ノーマの人格(交代人格)になります。恐らく、解離性同一性障害です。

そのような障害をもつ人たちの多くは、幼児期から児童期に、強い精神的なストレスを受けた、という体験をもっているようです。ストレスの強い負荷の力が、その人を、どのような状態に至らしめるか、というと、やはりその人の「弱い部分のほころび」に何かが起こり、そこから、じわじわと拡大していくことになります。

私たちは、自分の内面に、いくつもの人格をもっており、いろんな場面で、異なった側面を表し、実は、それらの人格のどれも、真実の自分ではありません。

それは、ひとつの交代人格で生きているときに、基本となる人格がどこかへ行ってしまい、その間の記憶がない、という解離性同一性障害とは、異なるのかもしれません。一方で、複数の人格的側面をもち、日常の場面によって表出する人格に、多かれ少なかれ違いが見られる、という点においては、解離性同一性障害も、障害をもたない人たちも同じです。

 

しかしながら、Wikipediaを読んでみますと

「酔うと人が変わる。 散々暴言を吐いておきながら翌日にはそのことを覚えていない。 相手によって態度や発言が変わる。 おとなしい人が突然激昂する。 これらは普通の人間にもよくあることであって異常ではない。 時として自分の内なる声を感じるとか別の自分を感じることがある。 しかしこれも通常は人間の多面性の表れ、日常的な迷いや葛藤であって障害ではない。 障害でないだけではなく、正常な範囲の解離ですらない。」

とあります。

 

“解離性同一性障害 ⇒ 異常”

“何かの拍子に人が変わって(他者の目に)理解しがたい振る舞いをする⇒正常”

と言っているわけです(恐らく、連続した、自覚的な自我意識があるかないかで、判断するのであろう)。

しかし、異常と正常は連続しているメビウスの輪のようなものであって、正常の延長線にあるのが異常であり、異常の延長線にあるのが正常だと、私は考えています。

 

地上にいる、心という機能をもつ人間は、逃れようなく、み~んな病気。健康度の “高い” “低い” はあるかもしれないけれど、「常に100%認識機能が健康」という状況は、死ぬまで起こり得ない。人間という生き物のもっている特徴です。

支配的な親をもつ子どもも、共依存の関係性も、「支配する親」や「共依存の関係にある他者」のパーソナリティ(という形を採るクリーチャー)を、自分のなかに生息させています。そんな視点でこのドラマを見るのも、面白いです。今のところ、日本で放映されているのはシーズン3まで。

ノーマンの異父兄として、ディランという青年が出てきます。仕事が大麻の流通と、まっとうな稼業ではありません。

しかし、ディランが、ドラマに出てくる人物のなかでは、最も標準的(≒普通、ノーマル)なゾーンの感覚をもっている、というのも興味深いところ。ノーマルな定点や視点を何か設けないと、視聴者も落ち着かないというか、ドラマとして面白くなくなるんだと思います。

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