まずは愛犬の記録から。

試しに与えたアイスクリームも食べない。唯一口にするのは、なぜか以前から飲んでいる腎臓の薬。

ちょうど切れたので再び動物病院へ。とりあえず、1週間分の薬を出してもらいました。

人間には「不食の人」というのがいますが、あれは「そもそも健康な人が、食べなくても健康を維持でき元気に活動できる」という現象であり、「元気ではないから食べない」というのと根本的に違います。ニケも「不食の犬」だったらいいんですけれどね。

お散歩から帰ってきたところ。道程の後半は全部歩きました。(5月28日)
体力・持久力が衰えてきたようです(特に下半身)。歩く距離は短く、キャリー移動を長く。(5月29日朝)
帰宅直後。(5月29日朝)

犬が急変することがなければ、数日前は、ヒストリーチャンネルでやっていた「ヴァイキング~海の覇者たち」について書いているはずでした。

しかしながら、お別れが近い愛犬と過ごしているうちに、ヴァイキングや、それを取り巻く、信仰の異なるヨーロッパの人達との戦いを描くこのドラマが、自分の姿、現代の人間の姿にオーバーラップしてきました。

「ヴァイキング~海の覇者たち」は、かなりの部分を史実に沿って描いているらしく、100%のファンタジーやフィクションではないようです。ちなみに相当面白いドラマです。お茶の間にて、家族で視聴するのには向きません。

北欧のヴァイキングは勇敢で残虐で強かった。敵の生首をたくさんぶら下げた船で強さをアピールし、海からやってきては各地で略奪を繰り返します。ざっくざくと人を殺し、人間を神への生贄にしたり、その血を飲んだり、自分の体に塗りたくったり、戦闘で自分たちも血まみれになったりで、現代人だったら変なものに感染して早々に死にそうですが、体の作りと意志のパワーが違うらしく、頑丈で壮健です。女性戦士がとても多い。

シーズン4までの主人公はラグナル。「西には豊かな土地があるらしい」というのを信じ、首長が許可しなかったにも関わらず、夢を捨てられず、仲間と秘密裏に船を出すところから物語が始まります。

ラグナルはその後、いくつもの戦いを経て、首長になり、王になるのですが、ヨーロッパ各地に船で出かけて行っては残虐な戦い、略奪を繰り返している割には、その目的と動機は「自分の民が耕地を持つことができるように(ラグナルたちは元々は農民で、略奪は副業だった)」「自分達の神オーディン(北欧神話の主神)の意思を体現し、喜ばせたい。ヴァルハラ(オーディンの宮殿で戦死者の館)へ行く資格を得たい」という、ごく限られた範囲においては、無私で公益的なものでした。ヴァルハラに行くには、勇敢で自分を捨てて神にすべてを捧げる必要があるようです(すなわちそれが、ヴァイキングが人生において重んずる価値観のひとつになっています)。

「西には豊かな土地があるらしい」と、確証はないけれど確信して出かけていった頃はラグナルもごく若く、「あわよくば」の射幸心、わくわくする冒険心と無謀さ、「西から略奪して帰れば首長も自分の主張を認めるかもしれない」という自己実現&承認欲求あたりがベースにあったのではなかろうかと思います。しかし、エゴや私欲だけで達成できるほど甘い冒険でもなく、彼らの心には常に自分達の神があり、自分を神に捧げ、神からのサポートを祈り続けました。

そして攻めていった先には、キリスト教やイスラム教という、別の神を信仰している人達がいて、それらの信仰に基づいた世界観や価値観、社会を形成しています。

 

「人間は神の似姿」と言います。

神が下位世界として、ある価値観に基づく構造をもった人間社会を作り出したとも言えるし、人間のマインドが自分達にとって都合のよいように神の世界(ある種の投影)を作り出した、とも言えます。

しかしそうであっても、そこには普遍的/超越的な真実や真理が少しは含まれているものだと思います。

ラグナルたちは名声を得、財宝を得たり、奴隷を得たりと、物質的に豊かになっていきますが、争いはさらに争いを生み、病気にもなれば大怪我もし、幸せだった頃の家族が離散もし、そのドラマは当事者たちが死ぬまで終わりません。(自分が死んでしまえば、自分にとってのドラマはそこまでで終わり)

 

人間は死ぬまで絶えず、何かが欲しいのです。それは大きなもの、目立つもの、人が羨むものとは限らず、他者から見て、とるに足らないもの、下らないものであっても、常に何かを獲得し、握りしめていたい。

私も愛犬の死が近そうだということで、普段より多くの写真を撮っています。

なぜ?やはり何かを獲得し、握りしめていたいからなんですね。これまでの何かを確認するためでしょうか、あるいは後から何かを思い出したいからでしょうか。それを求めているのは誰でしょうか。私のエゴです。

長距離歩くことが困難になった犬を連れだすためにキャリーを買いました。なぜ?共有しておきたい時間や体験があるからではないでしょうか。それを求めているのは誰でしょうか。私のエゴです。

愛犬に触れたり抱きしめたりします。それはヒーリングが第一の目的の場合もありますが、その感触を自分と一体化しておきたいからでもあります。それを求めているのは誰でしょうか。私のエゴです。

エゴとは、「これが私だという感覚」のことです。

人間とは、エゴがある間は、どこまで行っても欲を手放すことが難しい。

 

若い頃に『駆り立てられて走る』ことの大切さ~「シング・ストリート 未来へのうた」”という記事を少し前に書きました。

若い頃に駆り立てられることには

①真実/真理に到達するための一握りのエッセンスやステップが含まれている

②若い頃のチャレンジが、後年の自己信頼の土台を作る(駆り立てられても自分の意思でチャレンジすることのなかった人は、年を取ってから、自分に自信をもつこと、アクションを起こすことが難しい傾向にある)

③年を取ってからでは精神的/肉体的に難しくなる体験のゾーンがある(若いときには若いときの、年を取ってからは年を取ってからの体験がある)

ので、正体不明の欲が原動力であったとしても『駆り立てられて走る』ことが大切なときがある、ということです。

 

冷静に自分を観ていくと「人生で大切なのは、お金でも、成功者になることでも、他者からの承認でもないわ」というところまでは腑に落ちて生きているとしても、何気ないところで、いかに自分が事細かにいろんなことに執着し、記憶という儚い砂の城に何かをつなぎとめようとしているかに気づきます。さらに辿っていくと、それらの執着や試みは「これが私だという感覚(エゴ)」を維持することと、つながっていることが分かります。

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