「ブロックのように見えて、ブロックではないもの」。

昨日の記事にも書きました通り、私は、基本的に仕掛けていく仕事が苦手です。

それを、自分のブロックのせいなのではないか、と疑ってきました。しかし、そうではないようだ、という当面の結論に達しました。



ブロックとは、望んでいることを阻害するようにも/行動を制限するようにも働きます。だからそれを問題視し、ブロックを外すことで、真の望みを実現しやすくしようと試みるわけです。

いろんな角度から検討したところ

私は自分の特性と

携わっている仕事の性質において「仕掛けていく仕事の仕方」を望んでいない、ということが分かりました。

私は、自分が望んでいなくても必要ならば行動を起こします(「気が進まない」を理由に、何もしないというわけじゃないのよ)。

「することになっている」ように定められているように感じるものは、望んでいなくてもしています。また、望んでいるとしても、タイミングによっては行動の時期をズラします。

私に限らず、どんな人もも、世の中において他者や成功者に見える人が当たり前のようにしていることをしたくないとき/できないとき、メンタルブロックの存在を疑います。

もちろん、「これはブロックなのではないか?」を精査することは大切。

しかし!

私、思いますにブロックを疑うとき、世の中目線、すなわち他者目線となっていることが多い。

例えば…。家族みんながおしゃべりで、ほかの人が聞いていなくてもそれぞれが話したいことを勝手に話し続ける、にぎやかな家庭もある。

家族みんなが寡黙で、それでも上手くコトが運び、平和でストレスのない、思いやりにあふれた家庭もある。

他者目線(世の中基準)で見ると、かみ合っていなくとも、みんなが腹蔵なく言いたいことを言っている家庭のほうが、素晴らしいかのよう。

寡黙な家庭で育った人からすれば、賑やかな家庭というものを知ったとき「あれ?私の育った家庭って、何かおかしい?」そんなふうに感じることもあるでしょう。

でも、何が自然で、普通で、当たり前かはその家庭、その人の特性、関わる人達のケミストリーによって異なり、外側からは測れないものです。

人は「違い」にフォーカスするとき、自分についても、他者についても「これでは/今のままでは、いけないのではないか」と思いがち。

明るいほうがよい、よくしゃべるほうがよい、行動力があるのがよい、空気を読むことが上手なほうがよい、外向的なほうがよい、友達や知人は多いほうがよい、ソツなく動くことができるほうがよい、ポジティブなほうがよい…。

「今の自分ではダメなのだろうか?」そんな気持ちになったとき、他者目線になっていないか、それを見つめてみましょう。

ブロックの多くは、他者目線に陥ったときに、生まれるものです。

もっと人とコミュニケーションを取りたいけれど、できない。もっと行動的でありたいけれど、なれない。

そういう場合は、ブロックがあるかもしれませんので、それを外すようにアプローチしてみる。

しかしそこに他者目線での価値判断が入っている場合、世の中でよしとされる基準をクリアするように自分を変えていこう、とする流れが、新たな思い込みの生成につながることがあります。(そういうとき、根底には違和感があるはずなのですが、物心ともに下手に世の中との折り合いが上手くいってしまうことで、非常に分かりづらくなります)

誰もが、人ともっとコミュニケーションを取りたい、もっと行動的でありたいと望んでいるわけではないのです。(世の中的に、それがよしとされているように思っているだけ)

自分の勝手な思い込みであって実体があるわけではない、外からの目に合せて、自分の真の望みではないものを望みと勘違いし、自分を変える必要はありません。

それが「ありのままの自分を生きる」ことを阻害します。

何かコトを成そうとするとき、他者の目を基準にしないこと、自然な自分からスタートすることが大切です。世の中に確定的な軸があると思い込み、そことの間で作られたブロックばかりを見つめないことです。

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