先の記事からの続きです。

シルクロードの旅から帰ってきましたよ~今の自分はすべて虚構

生きづらさの正体~シルクロード(2)

『本当の自分(魂の声)』と思うものすら『カルマ』~シルクロード(3)

(ウズベキスタン工芸博物館併設ショップ―可愛い作品がたくさん)

先の記事にも書いた通り、カルマの引っ張る力は、私たちの想像よりも強大であり、カルマの力と魂の声とを識別する能力が高くない限り、魂の声に従っているつもりでも、実はカルマに導かれている、ということのほうが多い。

ただし「カルマはダルマ(自然な流れ)の一部」でもあるので、カルマに導かれた展開を一概に無駄なものとジャッジすることはできません。

そしてまたカルマに翻弄されるなかにあって、マインドの力をうまく使っていかないと、この世の生を切り盛りすることが難しくなります。(ここまでは、前回の補足)




さて私が今よりも、もっともっと未熟だった頃、スピリチュアルな業界に身を置くティーチャーと名乗る人たちを全面的にすごい人たちと見ていました。

低い山から高い山を仰ぎ見るとき、自分が低い位置にいるがゆえ、どの山が本当に高いのかを識別することが今よりも困難でした。

そんな時代には、いろんなストーリー(価値体系に紐づいた意味づけやマインドセット)与えてくれることが、マインドに安定的な解釈を掴ませることにより不安が解消されるため好都合だったので、そういう人やコトに喜んでお金を支払いました。

比較的最近とある有名なティーチャーに質問をしました。

答えは「それはアトランティス時代のカルマのクリアリングです。その当時、第3の目の誤用により、サイキックパワーがよくないあり方で使用されてきたことによるものです」という、現象をラベリングしただけの内容でした。

昔だったら、映画かドラマのファンタジックな世界にいるようで、そういう話も「へえ~、そうなんだ」「私(に縁のあるエナジー)は、そのアトランティスとかにいたことがあって、そこでサイキックパワーを誤用し、それに関するカルマを解放しているのだな」と面白く聞けたし、何よりもエゴマインドが特別感を得て満足しました。

現在は「この方は、真摯に私の質問に答える気がないのだな」(真理や原理がピラミッドの頂点にあるとしたら、三段目か四段目辺りの説明をあてがっている)というふうに感じ、それ以上何かを尋ねてみようという気持ちになりません。

ストーリーには、何らかの価値観や価値体系が付属しています。

「私のところに、なぜプレゼントが来なかったのかしら?」(こういうことが起きたのですが)

「サンタさんはね、いい子にしか、プレゼントを置いていかないんだよ」(それはアトランティスの…云々)

という会話の成り立ちと変わるところがないのです。

あるいはイエス・キリストの言葉、あるいは経典の深遠なメッセージを、そのままでは理解が困難な人たち向けに物語仕立てにするようなものです。

スピリチュアルな学びにおいて、今までとは何か別の価値観や価値体系を改めて植え付けるのでは、学びの意味が損なわれます。(クリアリングされたというよりは、置き換えが起こるだけ)

その根本的なところを破壊するためにイエスはやってきたけれど(「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、 むしろ分裂だ」)それがやがて宗教とか、思想とかへと形を成していくことで、それも「ただの価値観」へと変質していきます。

今回訪れた中央アジアは絶えず闘いがあり、勝った民族が言語、文化、宗教を自分たちのそれらで塗り替え、負けた民族は勝った民族の言語、文化、宗教を受け入れ、あるいは別の土地に追いやられ、という具合に幾度となく移動したり、塗り替えたり、融合したりし続けているエリアです。

ストーリー(価値観)の書き換えが長きに亘り繰り返されてきた場所。

(ウズベキスタンの歴史博物館にあった女性兵士の像。かつて女性が政治を動かし、女性が戦った時代があったそうです)

価値観に紐づけられたマインド的世界(文化や風習など)をベースに生きることは、一時的にもっともらしく結果として調和的であったとしても、そこには「全体における普遍性」や「一なるもの」がありません。

旅のなかで「ここでの戦いで、〇〇が勝っていたら、今は中国人が住んで、仏教が信仰されていたかもしれません」とか「××の強いリーダーシップのお蔭で、私たちは今、このように暮らせています。××がいなかったら、今頃はモンゴルのような貧乏な国のままです」とか「たられば」な話をいくつも聞きました。

ストーリーはどこかしらに「たられば」の要素を含み「たられば」が介入しうるものに真理を見つけ出すのにははなはだ手間がかかります。

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