タイでの合宿において、パートナーとの関係性について、フルフィルメント瞑想の創始者であるボブ・フィックスさんが解説するシーンがありました。



「パートナーシップを結ぶことで、相手のカルマを自分が演じなくてはならなくなる。そのままの自分でいて、何の摩擦も起きない相手が、ふさわしいパートナー。魂と魂は決して喧嘩をしない。カルマとカルマが喧嘩をする」

という部分が心に残りました。

「関係におけるバランス」の問題を指摘しているわけです。

自分がどれだけカルマを解放・浄化していても、相手がそうでなければ、相手のもっているカルマに合わせた役割を自分が演じることになる。その逆もしかり。

スタート地点ではフィーリングが合っていても、徐々に違和感やズレを感じるようになる。

同じように、既にカルマを解放している同士が出会うと、互いが互いのカルマを演ずる役割をしなくて済むので、そのままの自分でいられるし、そのままの自分でいることで、何の摩擦も生じない。

人生は時間軸でいえば有限なので、「ここから先は、自分のカルマについては、私を通さず、自力で対処してよ」というのは、関係性(夫婦、恋人、友達、親子など)において全然アリな決断だと思います。

袂を分かつことなく、真摯に関わりあうことが互いのサポートと成長につながることもあるでしょうが、離れ離れになることがサポートや成長につながることもある。

その辺りって人生において自由度の高い部分だと思うのです。一旦できた縁は切ってはいけないものと思っている方も少なくないですけれど。

誰の目にもわかりやすく離れることもない場合だってあります。相手の目にのみ映っているカルマに対し、同じ土俵に立って取っ組み合いをしないことです。

たとえば友達であれば、どこかしらに合わないものを感じたら、疎遠になっていくのが自然です。「昔は仲がよかったのだから、ずっと同じ距離感や態度で付き合っていかねばならない、対処しなくてはならない」ということはありません。

私は “創造” と “関係” というのは化学変化であって、この世に“創造されてくること”や“関係”の責任を、誰かひとりや限られた人たちが全面的に負っているものではないと考えています。あくまでも相対的なもの。

ゆえに絶対的に真で善なる事象というものは存在しえないので、“絵に描いた餅”を創造しようと意図することは、私の場合はないですね。

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