先日『インディアン・ランナー』にみる無価値観と受け取り下手 」という記事を書きました。



そこで

受け取り下手の

周囲に対する「破壊力」は相当なもの、と表現しました。

 

受け取り下手と

同じくらい厄介なものに

被害者意識というものがあります。

 

大きく言えば

「私はこんなに酷い目に遭いました」

「私はこんなにも可哀想な人なのです」

という見えない看板を背負うことです。

 

そして

どんな人のなかにも

多かれ少なかれ

被害者意識の種子はあります。

 

何かの刺激に対する反応として

それがひょっこりと顔を出すこともあります。

 

で、よくあるのが

「こんな可哀想な私をどうにかしてください」

というモードが

その人のエネルギーの広範囲を占有しているパターン。

 

私もこのような仕事をしていますので

ときどき

その傾向の強い方と出会うことがあります。

 

そして

そういった方たちが

わかりやすく

“可哀想な私”

“助けを必要としている私”

“自分で自分を助ける力をもっていない私”

として

「もちろん、助けてくれるんですよね?」

とばかりにアピールしてくるとは限りません。

 

他者への批判

自分のことは脇に置いておいての

一見筋道の通った理想論

他者を否定することで

「私を救うことのできない人たちは無能である」

という自意識を満たす

いろんな顕れ方を採ることもあります。

 

被害者意識歴が長ければ長いほど

その層が深ければ深いほど

その意識や行動のパターンは

巧妙になり、熟練していきます。

 

被害者意識に基づいて生きるかどうかは

その人の選択の問題であり

よいも悪いもないことなので

どうであっても構わないといいますか

私の関与するところではありません。

 

しかし

これも受け取り下手と同じで

周囲に対する「破壊力」は相当なもの。

 

まずは

そういう人たちに真剣に

真正面から関わる人たちから

どんどんエネルギーを奪っていきます。

 

そういう形で

他者をコントロールしていこうとします。

ある意味で

「一見弱者」

の戦術とも言えるでしょう。

 

世の中にはびこる

コントロールの犠牲者だから

被害者意識が強いのではなく

 

むしろ

被害者というマスクを

付けてはいますが

他者に対するコントロール欲求は

被害者意識の

強くない人よりも強大である

(それが無意識レベルのものであるとしても)、と感じることが多いのです。

 

私が属している流れから

私自身も

折に触れ感じるのですが

 

被害者の看板を

背負い続けている以上

 

人生のパターンを

変えることが難しい時期へと

世の中が移行しつつあります。

 

今までは

被害者意識をベースに

生きていても

 

そこから転ずる

チャンスがあったり

どこかからサポートがやってきたりしました。

 

今後は

そのパターンを卒業した人と

そうでない人とでは

別の世界を体験していくようです。

 

意識の世界において

両者が交わることが、さらに減っていきます。

 

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