イランは随所に地下貯水場があります。水は引いてきて、ただ貯めておくだけにすると腐るので、空気を流動させるための「風の塔」を設けます。古来のテクノロジーによるものです。

風の塔
地下貯水池への入り口

水を運ぶのには力が要ります。貯水場の上のスペースで、男性たちは身体を鍛えました。

貯水場の上で今も行なわれている、西南アジアに伝わる「ズールハーネ」という身体鍛練法を見学。

ヤズドのクラブ
見始めるとこれがなかなか面白く、時間が経つのを忘れてしまう
CDか何かに合わせているのかと思いきや、運動のBGMは打楽器と歌による生演奏

ここに紹介したのはその一部で、戦闘に必要なすべての型が鍛練法のなかに含まれているのだそうです。

写真では分からないと思いますが、中にひとり、非常に身体能力の高い青年がいます。ひとつの型をみんなで反復していても、それを通して発現するものは各人各様。

 

旅行前に書いた記事に「マインドを変えることによる“性格“や“価値観“の変更は可能だけれど“品格“を修正するのは難しい」というものがあります。そこで私は 『“性格” や “価値観” 』と表現しておりますが、性向(人の性質の傾向)に対して外側からの枠組みが与えられたものが “性格”。それに “価値観” というベクトルが加わったものが『人格』であると考えています。それに対し『本質』の一部を為すのが “品性” であり、それに対し、この世的見え方(定点)を与えられたものが “品格” です。

『本質』は、ある型、ある定点を通じて捉えるほかありません。何も留まるところがなく、すべてが常に動き続けている状態で『本質』を認知することは難しい。実際には「本質を顕す者」と「それを認知する者」が、互いに決まった場所(時間や空間)に留まり続けていることはあり得ません。どちらも絶えず変化します。しかし人間の認知機能は、ある形(軌道)や定点(ある瞬間)を通してしか『本質』らしきものに触れられないようにできている、と考えるほうがよいでしょう。

身体能力の高い青年も、ここでトレーニングに参加することにより、その素質(『本質』であって『人格』ではない)がより分かる、周囲に知られるようになる、という側面があります。ここでトレーニングしなくても、走るのが速いとか身体が軟らかいとか、日常生活において、その片鱗は十分にうかがえるのでしょうが、それに関しても『ある型』や『定点(瞬間)』を通して分かる仕組みになっています。

ここまでは「『本質』は、『本質』だけで存在しても、何が『本質』かは分からない。それを知るには通過する決まった形や瞬間と、それを観ている者が必要だ」というお話し。

そしてここからはグルジェフ。「本質は彼自身のものであり、人格は<彼自身のものではない>あるものだ。<彼自身のものではない>というのは外からきたものだということであり、彼の学んだもの、考えたこと、記憶や感覚の中に残っている外的な印象のあらゆる痕跡、学んだ動作や言葉、模倣によってつくられた感情、これらすべては<彼自身のものではないもの>、すなわち人格である」(「奇跡を求めて―グルジェフの神秘宇宙論」 P.D.ウスペンスキー著 平河出版社)

つまり、私たちがメンタルブロックと呼んでいるものも人格の一部であり(あるいは全てであり)、自分(『本質』)ではないもの。

再びグルジェフの言葉より。「自己修練における非常に重要な瞬間は、自分の人格と本質とを識別しはじめる時点である。自分の中の真の<私>、すなわち個体性はその本質からのみ成長することができる。(中略)しかし本質の生長を可能にするためには、まず第一に、絶え間ない人格からの抑圧を弱めなければならない。というのは、本質の生長を妨害するものは人格の中に含まれているからだ」

私の考えていることと被るところがあるので、わざわざ彼の言葉を引用しているわけですが、『人格』と『本質』を識別するためには、『人格』が借り物だということに気づく機会があるほうが好ましい。したがってある時点、ある段階までは、ブロックを外すとか、潜在意識のクリアリングとかで『人格』の変化を自覚していく。そのプロセスがあることで『人格』が虚偽のものだということに、気づくのが容易になります。

私自身は、今後誰かのブロックを外すこと、潜在意識をクリアリングすることに焦点を当てて関わるつもりがないので、その手のセッションを行なうことから徐々に遠ざかっていきました(ヒーリングメニューも近々止めることになるでしょう)。しかしある程度、メンタルブロックや潜在意識の課題がクリアになっている状態の人のほうが、覚醒への道を具体的にイメージしやすい、とは言えます。

「ステキなパートナーがやって来ました。仕事でどんどん認められてきています。お金もどんどん入ってきました。人生が好転する一方。うっひゃー(軽い躁状態)」というところ辺りで、人間としての生をマスターしたつもりになるのであれば「人間という機械」のままで、この世を去ることになります。しかし、「そこに留まらない」という選択をするのであれば「うっひゃー」にも通過点としての意味があるというものです。

多くの人間は寝心地のよい布団で心地よく眠っていたいし、その心地よい状態が続くよう、『人格』レベルで右往左往します。そして寝心地のよい布団で眠りこける状態に至るのでさえ、人によってはラクな道ではありません。覚醒の道は「心地よい眠り」とは無関係なので、「人間機械」のままでいるほうが、未来永劫続くかどうかは別にして “この世の春” を謳歌できて楽しいのかもしれません。(まだつづくかも)

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