私は、「自我の終焉―絶対自由への道 」(クリシュナムルティ)の第十八章「自己欺瞞」が好きです。

 

恐らく

私の知りたいことに対して

すべてを答えていてくれるからではないかと思います。

 

含蓄があり過ぎてあまりある、この章の一部を引用します。

 

「私たちが何らかの形で自己を欺いているかぎり、愛が生まれることはできません。また精神が妄想を作り出して、それを精神自体に押し付けているかぎり、明らかに精神は、自らを全体的な統一した理解から切り離しているのです。それが私たちの難問の一つです。また私たちは真の協同の仕方を知らないのです。私たちが知っていることは、私たちがお互いに作り出した一つの目的に向かって一緒に努力していくことだけなのです」(P.174)

 

つまり理念や目標、目的はひとつ。

表面的には足並みが揃っていても、それに関わる人たちの心はバラバラ。

 

でもひとつのゴールを目指してみんなで努力していく、それを私たちは協同とみなしている、ということになります。

 

表向きには破綻がありませんが、内面は葛藤と闘争にまみれています。

これは集団について言っています。

でも、個人のなかでも、同じことが繰り広げられています。

 

表向きには

ある程度の整合性

統一感がありますが

 

心のなかは

「ああ言う自分」と

「こう言う自分」とが戦い

どちらかがどちらかを言い含めるか

屈服させるか

そんなことが起きています。

 

そしてこの

「ああ言う自分」と「こう言う自分」というのは

過去の経験や

それに伴う感情

それに基づく思考(仮説検証や仮定と推論、道理といったもの)相互による葛藤です。

 

いわは、ブロック(メンタルブロック)同士の戦いですね。

人間が肉体のある生物であることを考えると

ある程度の危険予測ができることは、生存のために必要です。

 

したがって、ひとつひとつを「ブロックだ」「外さねば」と認識する必要はないと思います。

 

ただし「台風の日に海を見に行くと危険」とか

「夜、人通りの少ない道を歩くのは危険」とかという類の話は別にして

「こうすると、あの人にこう思われる」であったり

「言う事を聞いておかないと嫌われる」であったり

「ここはこうしておく方がメリットが大きい」という

多くの対人処世的な考えは

不要なブロック(メンタルブロック)であると考えてよいでしょう。

 

私もこのところ

「ここはこうしておくのが安全」

というテーマについて

自覚する機会があるのですが

親分のブロックを外しても

目立たない子分というのが

ときにウロチョロして存在をアピールします。

 

平穏なときは

鳴りを潜めていますが

緊急度や緊張度の高い出来事があると

「ここにこんな子分が!」と気づくことがあります。

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