カウンセリングやスピリチュアルな学びの世界においては「感情を感じ切る」ということが重視されているかのようにみえます。




実際のところ感情はエネルギーなので(言い換えれば、エネルギーに過ぎないので)そのエネルギーを抑圧することで、エネルギー的存在としての自分に歪みが生じます。したがって、感情の解放というのは大切です。

悲しければ泣き、腹が立てば怒る、嬉しければ思い切り喜び、楽しければ心から笑う。

「感情を感じ切る」という表現をするとき、その感情とはネガティブなものを指すことが多いように思います。

感じたくないからフタをしてきた悲しみ、見ないふりをしてきたけれど、そこにあり続けた怒り・・・。

それらを感じ切ることは、大切といえば大切ではあるのでがが・・・。前提が不適切な状況では、感じ切っても、意味がない場合があります。

もうちょっとはっきりと言いますと、下手にやるとまったく意味がありません。

自分の設定したストーリーのなかで泣いたり怒ったりすることは、エネルギーの発散にはなるかもしれませんがそのストーリー自体が歪んでいれば、その歪みのエネルギーのなかでの「感じ切り」に過ぎないわけです。

その場合、歪みのエネルギーにおける解放が、さらなる悲しみや怒りを呼び寄せることがあります。

「感じ切ったら終わる」はずが、続々と悲しみや怒りのネタが生まれてきた。再び自分の元にやってくるのでは「感じ切る」ことも終わらないし悲しみや怒りの体験も終わらない。

わかりやすい例で言うと、自分が作り出した“悲劇の主人公”という物語の中心で、どれだけオイオイ泣いていたとしても元々の世界観が歪んでいるので、中立的世界からすればアンバランスです。

歪みのない中立的世界(統合的世界と言ってもいいかもしれません)と、脚本&制作&主演自分のマイワールドの間には隔たりがあります。

したがって、マイワールドのなかで精いっぱい解放したつもりでもバランスが取れて真ん中に戻る中立的&統合的な世界に向かうという流れになりづらいんですね。

ものごとを俯瞰的に見る、鷹の目で見るという、もうひとつの視点が必要です。

“悲劇の主人公”を何の感情も交えず、自分ともみなさず、客観的に見つめる目です。

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