かつては「波動」という言葉に胡散臭いものを感じていて、「波動を上げる/下げる」とか「波動が高い/低い」とかというフレーズを頻出する文章や人を敬遠していました。




当時のその手のものには「私は、こんなことも分かってしまうのよ」的な特別意識、選民意識が、プンプン漂っていることも多いように感じられ「おいおい、勘弁してくれよ」という気分になったからです。

しかし回りまわって「その人の現実がどうあるかを、ある程度決定づけるのは、やはり、その人の波動(周波数)がどうあるかである」というところに収束してきました。

体験に基づく事例です。

A. 香港のセミナーにて

アタマがクラクラする、グラングランと目が回る、ときに半分眠ったようなうねるような心地よいエネルギーのなかにいました(寝ても覚めても、セミナー中でもそうでなくても)。

そういうなかにいると、一般的に負の感情とされるものが浮かび上がることがなく、他者がどうであるとか、何をしているとか、何を言っているとか、一切どうでもよくなります。

「ああ、波動(周波数)が高いとは、こういうことなのね」と。人の批判、ジャッジ、欠点のあげつらい、悪口を言う…。

私のなかに、そういう自分がまったく存在しないということではないのですが、その領域との間にシールドあるいはギャップが生まれ、まるで引き金を引かれることがありません。

例えば、過去のいやなことを思い出すと、それに伴う考えや感情が引き出されてくるとします。

高波動状態にあると

①過去を思い出さない

②思い出したとしても、それに思考や感情がくっついてこない、のです。

B. 波動同調の事例

憎しみや嫉妬、自己承認欲求などをベースに誰かの悪口、批判を

行なっている人の言い分を信じて、同情・同調していると、自分の波動がその人の波動に同調し、日常生活に、自分にとってのいいことが起きなくなっていきます。

C. 本日もうひとつのテーマ「ジャッジ」

観察している限りでは「愛と光」系の「ジャッジはいけないこと」と述べている人たちもガンガンジャッジしていますから、いいんじゃないでしょうか、ときにジャッジしても(笑)

3次元世界を生きるうえでは、識別という意味でのジャッジ、好き嫌いや個性をもった、個人としてのジャッジは避けられないのではないかと。

私個人としては、より客観的なものを積み上げての振り分け(カテゴライズ)に対する抵抗感は少なく、むしろその底に潜む、感情価を含んだ「何かや誰かをこうと、決めつけたくて仕方ないエネルギー」を感じたときに「ん?」と思います(それは、決めつけずにはおれない側の人間の、昇華されていない闇に基づくものだから)。

そして、あるレベルから上の波動の世界にはジャッジメントはない(あるいは、波動が上がるにつれ、ジャッジメントが減る)、と今のところ感じています。

あさってから、イスラエルに行ってきます。

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