愛犬ニケが死んだのが昨年の今日でした。昨日から今日の日付に変わる頃、必要があって1桁、2桁、3桁の5つの数字を足し上げたら「555」になりました。「てんでバラバラな数字を足したにしては、語呂のいい数字になったなあ」なんて思ったんですが、思い出してみれば、彼女は6月2日の5時55分に息を引き取ったのでした。

ところで「なぜ、ひきこもりになったのか?」「なぜ、ひきこもりには男性が多いのか?」といった話題で、「“男らしさを求める日本社会”からの重圧」を理由として挙げているレポートを見かけることがあります。

しかしながら、日本語に「男らしさ」という言葉はあっても、日本に「男らしさ」という実体を伴う文化が育っていないため、「男らしさ」を定義するものもなければ、当然のことながら「男らしさ」の文化もありません。西洋人が、西洋文化の枠組みのなかで当たり前としている「男らしい男」は、日本にいません。

「市民」という言葉はあっても、日本に「市民(名古屋市民とかではなく、citizenのほう)」が実質存在しないのと同じです。

いま仮に「男らしさ」を、女性との私的な関係性における、男性のもつ特徴の総和とするならば、日本の場合「妻に母の役割を求める」とか、「女性に立ててもらいたがる」とか、「なんか知らんがエラそうに振る舞う(女性より優位にあるという実感を必要とする)」とか、「成熟していない自分のフォロー/サポート役を女性が当然してくれるものと思っている」とか、情けない内容が目立ちます。恐らくこれらはグローバル基準の総和としての「男らしさ」の定義からかけ離れており、「日本の男らしくない」ほうが、「まともな大人であり、まともな男である」と言えるかもしれません。

日本の文化に「男らしい人」や「市民」が存立していないのは、成長の過程で “個を確立” することがないからです。他者に寄りかかって体面を保つ在り方に長けていき、“自分” という “個” を見つめ、“個” としての選択、行動の責任とリスクを引き受けるということを学ぶことが少なく、参考になるような大人が周囲にほとんどおらず、集団のムードに流されたり、集団と自分を同一視したりする人達の中で、自分も同じようなテイストの人物として育っていきます。その結果、“自分” というものが分からない/分かろうとしない人の群れ、依存心たっぷりで、もたらされた結果に対する被害者意識が強い傾向や国民性が生まれます。

ひきこもりに男性が多いのは、日本社会が型にはまった男らしさ(もっと広げて言うなら「生き方」)を求めていて、不器用さ、真面目さ、ナイーブさゆえに、その重圧に対処できないからではなく、自分のアタマで考え、自分の意思で選択し、自分自身で実行に移し、そのリスクと責任を自分で負う、という精神的態度とスキルが育っていない男性が多いためです。誉めそやしたり、立つ瀬を設けたり、己の承認欲求を満たすようなことはしてくれないかもしれませんが、「自分の食い扶持を、自分で稼いで生きる(そして納税義務を果たす)」という最低限のライン以上を、日本社会が、日本の男性に求めることはないでしょう。私は20年来の自営業者、まったく世の中を知らないわけではありません。その私から見て、子どもを持って働く女性の大変さに比べれば、世の単身男性に対する要求とはその程度のものです。

スピ系ビジネス(特にアメリカ方面から輸入されてきたもの)において、全体性やワンネスが強調されることがあります。“個の確立” が当ったり前の前提である西洋人が「全体性やワンネスの方向へと目を向け、振れる」のと、自分というものを分かっておらず、自分の意思で決めているつもりでも、周囲を気にし、無意識のうちに集団の動向や意向に左右されて選択/行動している日本の人が「全体性だ」「ワンネスだ」という西洋からの受け売りに流されるのとは、同じように見えるとしても違います。

もともとが一なるものから生まれた私たちが、“全体性” に目を向けること自体は間違いではないのですが、残念ながら “個” を確立したことのない日本人が、目覚めた心なしに批判的精神もなく、周囲に呼応して “全体性” や “自己の放棄” に向かうとするなら、それが何であろうと、踊らされているだけの、ただの宗教になっていきます。

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