新たにリフォームをしていたスペースが、完成しました。

1463295367110

1463295381529

1463295404899

アクセスコンシャスネスのファウンデーションクラスでも言及がありました。「日本の人は、先祖との繋がりに囚われる。したがって、先祖に対して何やかやと罪悪感を持つ」

その通りだと思います。現在、井上家は、亡き母の十三回忌法要を予定しております。

私の素朴な疑問。「死者のために、なぜにライブで生きている者たちが、窮屈な思いをしながら、万障繰り合わせねばならないのか」



生きている人が、自分の人生を生きるための日々を苦労して調整してまで、死者のために執り行わねばならないことってあるんでしょうか?(私が私に問いかけたところ、「そんなものはない」という答えが返ってきました)

他界したのが去年とかおととしとかならばともかく、結構な昔のこと。非業の死を遂げたわけでもない。

生まれてきた以上、例外なく全員がいつか死ぬので、いつまで何を偲んでいたらいいのか、死んだことを気の毒がっていたらいいのかよく分からない。

そして何より、生きている人の予定よりも既に他界した人にとってのあの世での予定(生きている人が想定したもの)や、生きている人間が勝手に投影した死者の思い(亡くなった○○さんは、きっとこういうふうに思うに違いない)のほうが「優先/尊重されるべき」という価値観が、私にはフィットしない。

供養や法要・法事に喜びとやりがいを感じている方もいらっしゃることでしょう。人それぞれなので、私の感覚に同意・共感していただく必要はございません。

結婚式ならば、生きている人のために、生きている人が参集するものだから(大抵は一生に一度のイベントであるし)その機会を大切にする、というのも分かるのです。

死んだ人は、仏教ならば三回忌、七回忌というタイミングで供養を望んでいるのでしょうか?あたしゃ、そうは思わないですけれどね。

年を取ってくると先に亡くなる人が増えていくので、毎年誰かしらの法要をすることになりがち。

亡き父が、先立った亡き母の三回忌法要が終わったとき「次は七回忌までないからね。みなさーん、お疲れさん!」とニコニコして、言っていたのを思い出します(笑)

亡き人を偲ぶとか感謝するとか、日常の折々にすればよいことであって、離れた場所に住む者同士が、毎年のように集まるのって、結構大変だったりするのです。

この世を去った人がそれを望んでいるというよりは、生きている人たちが先に亡くなった縁のあった人に対して、罪悪感を持たないように振り返りの機会を作る、それが法要。思いと執着を残しているのは生きている人たちのほう。

死者にパワーを与えることで、自分たちが妄想から作り出した裁きの元に、自分たちの身を置いていませんか?そして、生きている人間(他者)に対しても似たようなことをしていませんか?

きちんと供養しないと死者が生者を裁き、罰を与える。そんな死者への妄想と同じように、他者に対しても心や頭の中身を勝手に想像し、そちらに合わせ、軸足を置くことで、自分を亡くして生きている。生きている人のほうが、身体から魂の抜けた幽霊みたいになっていたんじゃ、それこそ、先祖が浮かばれません(笑)

オススメ関連記事: