イスラエル旅行での気づき、第三弾です。

第二弾の続き。




死海の光景。

リゾート地であり

少し変わった立地のためか

近郊のキブツ(イスラエルにおける農業共同体)も人気が高く、希望しても入ることが難関であるそうです。

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海水の塩分濃度が約3%であるのに対し

死海の湖水は約30%の濃度と言われ、入っていて、かなり浄化力が強いと感じました。

 

死海の日の出。

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訪れたときの天候も関係しているのかもしれません。ひたすらに幽玄です。

複数の次元が、限りなく重なっているかのような印象もあります。

 

さて、第二弾の最後に

「ただし、ただ絶望しているだけならば、ブロックとして扱っていくことも可能ではあるのですが、別の要素が複合的に関わっているので、なかなか手放しにくいのである、ということに、今回の旅で気づきました」

と書きました。

 

クリシュナムルティによる、“星の教団” 解散演説より。

「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです。

それが私の見解であり、私はこの見解を絶対的に、かつ無条件に固守します。

無限でいかなる条件付けも受けず、どんな途によっても接近することのできない〈真理〉は、組織化し得ないものです。

また、特定の途をたどるように、人々を導いたり、強制したりするような、どんな組織体も形成されてはならないのです。

もしあなた方が、最初にこのことを理解されるなら、一つの信念を組織化することがいかに不可能であるかということが、お分かりいただけるでしょう。

信念というものは純粋に個人的なものであり、組織化することはできず、また、してはならないものです。

もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。

それは他人に押し付けずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。

これこそ、世界中の誰もがしようと試みているものなのです。」

(「クリシュナムルティ・目覚めの時代」めるくまーる)

 

宗教に限らず、いかなる組織も

個人の救済や覚醒を導くことはできないこと

程度を問わず何であれ

教条主義が人間を破壊すること

こんな人がこういうことを言っているから

正しい/安心だ/疑う余地はない/言うことを聞いておこうといった迷妄に

自分を含めた人々が鈍感であること

先の記事にも書いた通り、私はそれらに絶望しました。

 

絶望とは、「私」というエゴが

人や観念・信条など

信じたものとの関係を通じて傷つき

痛みを感じ、希望を失ったということ。

 

したがって、そういったもろもろに

再度近づいていくことへの恐怖があります。

 

私の認識がおかしいのかもしれないと

実際に近づいて、アレコレしたこともありますが

「やっぱり、当初の直観のほうがしっくりくるわ」

という結論に達しています。

 

そうった一連の体験を通じて、ブロックを強化しつづけているわけです。

 

一方で、

・組織が個人の救済や覚醒を導くことはできないこと、

・程度を問わず教条主義が人間を破壊すること、

・こんな人がこういうことを言っているから正しい/安心だ/疑う余地はないといった迷妄に鈍感であること、

・人を頼って手を差し伸べてもらうことで本質的に救われることはないこと、

 

これらは真実であることを

私は、現在の肉体にくっついたものではない

知性のどこかで知っており

(クリシュナムルティの言葉を引用はしましたが。まさに権威の活用であることを白状しておきます)

現在の私の立ち位置に

影響を強く与えるものであると同時に

恐らく今後も変わるのところのない部分です。

 

私は、エゴの傷を通して、その真実を体感として改めて理解しました。

 

ゆえに、その真実のあるところには

常に体感的な傷があり

残っている「私」というエゴが

真実の発動に伴って、その傷を正当化すべく動きます。

もう、その手には乗らないよと。

 

「その手に乗らない」ことは

一面では間違っていないのですが

陰には依然として傷があり

それが私の反応を晴れ晴れとしたものでなくしています。

 

ざっくりと表現すると

・明らかに偏った認知/認識に伴うブロックは、指摘されやすく、自分でも気づきやすく、外す気にもなりやすい(例:私が感じていたことは、フィルターのかかった私固有の現実であるに過ぎなかった。フィルターを無色にするか、別のものに取り替えよう)

・より普遍的真実に伴うブロックは、自分の認知/認識を変えたとしても、くっついている先が普遍的真実であるがゆえに、「ああそうか」とはなりにくい(例:私が感じていたことは、普遍的な真実である。したがって、私の痛みは正当なものである)

というふたつがあり、今回の旅での気づきは、根深いところで持ちこしてきた、自虐的なブロックである後者となります。

この続きは別記事にて。

 

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