本日も、日帰り出張でした。

年内の東京出張は、これで終わりとなりそうです。

何年か前、チェンマイで受けた、ボブ・フィックス氏の個人セッションの音声を聞く機会が、最近ありました。

ボブさんは、エターナルラブ瞑想(旧フルフィルメント瞑想)の創始者で、私の先生に当たります。

数年ぶりに聞くと、当時は気づかなかった示唆に満ちていました。(ボブさんは、「たびたび聞き直すように」と言っていたのですが、まったく聞いていなかった)

ボブさん、さすが!!


母は他界しても私のなかで生き続けている

…と書くと、なんだか親子の素敵な物語のようですが、まるで反対です。

死んだ母には、あらゆる意味で徹底的に死んでもらわねばなりません。

何かを感じるとき、何かをするとき、私の選択は必ずしも「純粋な私」からやって来るのではなく、私のなかに深く埋め込まれている母の価値観や感じ方が、私の選択や行動を決めている、という場合があります。

私は私の選択を主体的にしているのではなく、自覚なく、自動的に、後ろから忍び寄る影のような存在である、私の中の母が真の実行犯だったりするのです。にも関わらず、自分の意思と感覚に基づいた選択をしている、と思い込んでいる。これは誰にも起きていることです。

そのような状態から、“母の亡霊が私の感じ方や選択に干渉し得ない状態” へと移行して初めて、私は私を生きている、と言えるようになります。

価値観や感じ方の背景にある反応のパターンを見る

私たちは、何かを決めるとき、何かを行なうとき、何らかの振る舞いをするとき、私自身によって選択していると思い込んでいます。

しかしながら、ひとつひとつチェックしていくと、そこに「本当の私」はなく、外側から入り、自分の内面に付着した親(私の場合は母)が主導権を握り、ある結論へと誘導していることが分かります。自分を生きているつもりで、母の代わりや、母の人生の続きを生きているのです。

「私はAをしたい」とします。しかし、「Aを選択するのはいけないことだ」という気持ちがほぼ同時に起こり、Aという行動を選択しなかったとします。

「Aを選択するのはいけないことだ(とか、『Aを選択するのは〇〇だ』)」という気持ちやジャッジが起きてきたとき、それは母の価値観やパターンであることが多い、ということに、当時の音声を聞き直し、己を振り返ることで、改めて気づきました。

ボブさんの言っていることで興味深かったのは

「あなたが『Aをしたい』と思うとき、『いや、その選択はよくない』という声が同時に起きる。それはすなわち、お母さんなんだ。お母さんは、あなたと違って『Aをしたくない』のではなく、お母さんも本当は『Aをしたい』んだよ。『しかし、ここでAを選択すべきではない』という反応があって、その反応が、まさにお母さんそのものを表わしているんだ。それに気づき続けなさい」

という言葉の、特に下線部です。

自分を通して家族のカルマを解放する

先のように「死んだ母には、あらゆる意味で徹底的に死んでもらわねばなりません」と書きますと、母に対し、冷たい態度であるように感じられるかもしれません。

実際には、私を通して「徹底的に死んでもらう」ことで、家族のカルマの次元において、私が自由になり、同時に母も自由になることにつながります(現在と過去は重なっているので、現在から過去のカルマを解放することができる)。むしろ、家系に対する貢献と言えます。

連綿と、代々似たようなパターンを繰り返していることは、家系に対する愛になり得ません。

私の母は勤勉な人でした。

大学の仏文科を卒業し、死が近くなった頃まで、長年に亘り、フランス語の勉強を欠かしませんでした。箏・三弦の教授でもあったので、もちろん練習も熱心にしていましたし、楽器の研究をしたり、論文を書いたりもしていました。幼い私と弟を連れて、夏は関東の大学のスクーリングに参加し、幼稚園教諭の免許を取ったこともありました。ボケ~っとダラダラ過ごしているようではイカンという、強迫観念にも近いものがあったように思います。

私は、母よりは怠け者ですが、それでも学び続けてきました。何か習得したら、その次のステップに進むか、次の何かを学ぶのが当然、という価値観に支配されていたためです。しかし、今になって思うと、陰の実行犯は、私の中の母だったのですね。

ボブさん的表現をすれば、母も怠けた生活を送りたかった。しかし、「そういう選択をしてはいけない」というジャッジがあり、その反応こそが母のパターンであり、私という別の肉体を通じて、私の人生に、母の人生の続きをさせるように機能してきました

ボブさんは「それでは、あなたはどうしたらいいのか。お母さんがしないようなことを、どんどん選択して行動に移すといい」と言っていました。

「一個の家族が、一つ屋根の下で成長し合うことはほとんどない」

これはボブさんの言葉ではありません。

このところ、好んで読んでいる、ある天才瞑想家の本に書かれていたことです。

私は大学入学と同時に上京し、物理的に母と距離ができました。

その後、結婚して、精神的な面で、さらに距離ができました。

母が他界し、互いの間で、新たなドラマが作り出されることがなくなったので、私の中の母を成仏させることに力を注ぐことができる環境が整いました。

それでも、母の影響は、根強く私の内面に浸透しており、私を最も手こずらせるものであることに変わりはありません。

「母が(父が、でもいいです)こういう人だったから、私はこういう人なのだ」というのは、あくまでも途中経過です。

それは「本当の自分」ではありません。親の痕跡を昇華したときに、「自分の真実」が開いていきます。

「親の因果が子に報い」と言いますが、「親の因果」をゼロにもっていく(=親の蒔いた種を刈り取り、その影響を子孫から消し去る)ことにもつなかります。

 

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