一週間後、タラコースに参加するため、タイに出発しますので、今記しておきたいことをとりあえず書いてみます。

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瞑想を続けていますと

願望が実現しやすくなる(といいますか、自然な流れ『ダルマ』に乗りやすくなる)感覚を得るようになります。

 

言葉にすると

「瞑想は人生の摩擦を少なくし、願望実現にも有効である」

が実感となります。

 

しかし、私自身が願望実現を求めて

瞑想を始めたわけではありませんので

叶ったの叶わないのと一喜一憂する

“願望実現を目的とした瞑想”には、個人的な違和感があります。

 

健康になりたい、人間関係を良くしたい、豊かになりたい。

 

そのような動機があって瞑想を始める方が多いのでしょうから

出発点が願望実現であって構わない

願望実現を求めることは誰もが通る道、と思います。

ただし、いつまでもそこに居続ける、というのはいかがなものか。

 

瞑想とは「小さな自分(エゴ)」が消えていく瞬間瞬間を言います。

(廊下の雑巾がけだって瞑想になりうる)

 

「小さな自分(エゴ)」が握りしめている願望を

大いなるものに対し「叶えてください」と突き出す儀式的行為を、瞑想とは言いません。

 

その逆で

大いなるものから突き出された恩恵を

(それは一見すると悪い出来事かもしれない)

 

「小さな自分(エゴ)」を超え

波そのものになって乗りこなし続けていると

そこにはいろんなミラクルが起きてくる、ということはあるでしょう。

 

“願望実現を目的とした瞑想”派の方たちは、そのあたりの順序を誤解していることが多いので、留意されるとよいと思います。

 

スワミ・サッチダーナンダの言葉:

「心に執着がないとき、はじめて瞑想が可能となる。実を言えば、もし心がすべての利己的な欲望から完全に自由であるならば、瞑想をする必要もないのだ。もしそうならば、その人はいつも安らいだ状態にあるわけで、そわそわすることもないし、落ち込んだりすることもない。だから修習と離欲の両方が必要なのであって、中でも特に離欲が大切なのだ」(「インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ」)

 

ラメッシ・バルセカールの言葉:

「瞑想から何かを得ることを期待している『瞑想者』がいるかぎり、私の考えでは、その瞑想は役に立ちません。本当の瞑想は、神の恩寵とその個人の運命によって、しだいに『瞑想者』が瞑想の中へ消え、瞑想の終わりには、期待をもって瞑想をしているどんなエゴの残存もないというものです。そのとき、瞑想はまったく違ったふうに起こります。私の考えでは、それだけが本当の瞑想であり、そこには、瞑想から何かを得ようとするどんな個人の瞑想者もいません」(「誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」)

 

「小さな自分(エゴ)」の囁きにより

「これを手に入れれば私は幸せになれる」

「これがないから私は満たされない」

そんなふうに思っていませんか?

 

瞑想にも波があります。

安らぐときもあれば、イライラするときもある。

瞑想を通じてエゴや願望を手放し、まずは安らぎを見つけてください。

 

それを繰り返しているうちに、あなたのリアルな人生における願望そのものが変化していることに気づくでしょう。

 

瞑想をすれば願望が実現し

それをもってして

リアルな人生における焦燥感を解消できる

という道筋(目論見)は、複数の視点から見て間違いです。

 

特に、タラのタントラでは

その辺りまで理解が進んでいないと

人生の不条理に翻弄され

痛みが大きすぎて、瞑想することを止めてしまう人も出てきます。

 

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