スピリチュアルなお金のとらえ方として

「お金は、使っただけ入ってくる (だから、ワクワクするものに、じゃんじゃん使いましょう)」

というものがあります。

(と言うか、たまに見聞きします)

 

世の中には

「使っただけ入ってくる」人たちもいるのでしょうが

私は

自分のこの人生において

それを信じて生きる気になりません。

(私の魂は、そちらの道を選ぶことがないのだ)

 

私は

「必要なお金は入ってくる/必要な金額だけは残っている」

と思っています。

 

つまり

100万円を何かに使ったら(投資したら)

必ず100万円以上が

私のところに還ってくる

と考えることはありませんが

 

100万円必要ならば

なにがしかのルートや形で

100万円相当に代わるものがもたらされるし

 

手元に10円しかないとしても

その10円から

自分の人生のテーマに

必要と思われるイベントを

スタートすることができる。

(真っ青になって「お金を貸してくれ~」と、金策に駆け回る行動に出ることを含め)

 

そのように考えます。

 

気分やマインド面で

「今の、この状態では不足している」

という不足感やジャッジはあるかもしれないけれど

究極には

実生活面トータルにおける

“完成度” としての過不足はなく

帳尻が合っている、ということ。

 

カルマも同じだと思うのですね。

 

「100万円使ったら、100万円還ってきた」

(お金なら、お金という同じカテゴリーのなかで等価に因果が巡る)

というような

狭い範囲のエネルギー交換や

「払っただけで還ってこないのは、私にまだまだ解放されていないブロックやカルマがあるからだ」

というように

エネルギーの滞り、クリアリングの視点のみから

とらえるのでは

何かが欠けているように感じます。

 

瞑想を続けることで

現実を生きることにおいて

細かな、枝葉末節のカルマに翻弄されることは

少なくなっていきます。

 

しかし

どでかいカルマについては

まあまあのカルマへと

規模縮小されはしますが

 

かと言って

きれいさっぱりとなくなる、ということは

あんまりないことのように思うのです。

 

それはなぜか。

 

瞑想だろうが

カルマの解放ワークだろうが

ブロックを外すワークだろうが

哲学・考察・思索だろうが

お祓い・除霊・祈りだろうが

 

それらを通じて

すべての山が動き

平坦になるのであれば

「生まれてくる/生きている必要がございません」。

 

だから

実生活の各場面で

自分で手掛けねばならない宿題が

多少を問わず

手元に残ります。

 

肉体をもって

生きて

いろんな感情や肉体の状態を体験して

あれをしてみたり

こっちに行ってみたり

行動をするなかで

 

泣いたり

笑ったり

いろんな人と出会ったりしながら

そのプロセスや相互作用のなかで

解放していきたいカルマがあるはずなのです。

(助け合いとして、他者のカルマを演じることだってある)

 

それが人間としての生における “成長” であり

“成長” を通じてカルマを解放していくことも

この世に生まれてきた

私たちのテーマのひとつ。

 

私たちは

生きているのがしんどいのは

イヤだし

不快だから

 

ラクになりたい

そのためにもカルマを解放したい

 

と考えます。

 

しかし

“大きな成長” をもたらす

要となるカルマは

生活のなかで必ずや発動するし

それらを引き受けるつもりで

この世に生まれ出てきているように感じます。

(生まれてくる前は、とても志高い状態にありますので)

 

ゆえに

お金というテーマひとつ取っても

支出と同等以上のものが入ってこようと

残高が減っていくばかりであろうと

常に “成長” に貢献するように

物事は起きている、ということです。

 

ある人が

「通帳の残高に、ゼロをいくつか付けて、欲しい金額にすると、それだけ入ってくる。お金の仕組みは、実に簡単だ」

と言っていました。

(10万円→10億円とか)

 

関心のある方は

やってみて、それだけ入ってきたら

私にお知らせください。

(その通りになったとしたら、その人の言っていることは正しいのかもしれないからねえ)

 

それが本当であったとしても

私は、する気になりません。

そんなことで

入ってくる金額が決まるとしたら、つまらない。

私は、そういう人生を求めていないのです。

 

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