毎日、梅のお世話で大変です。

ても、家のなかに、梅の香が漂っているのっていいですね。

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前回の続きです。

イメージンク系の瞑想(観想法)をよしとしない人がいるのはなぜか。

 

ヒアリングして回ったわけではないので

確定的なことは言えませんが

ここがキモだろう、というところに

私の感ずるところをプラスして述べることにします。

 

イメージとは、何から出てきているか。

既存の体験や概念です。

知らないものをイメージすることはできません。

 

その人の、知覚や認識の広さ、深さがイメージを決めます。

 

瞑想をする目的にもいろいろありますけれど

例えば私は

自分よりもずっと大きなところ

自分の今までの認識を超えたところ

つまり「空(くう)」と繋がるパイプを太くするために瞑想しています。

(瞑想を通して、この世的な課題を解決し、願望を成就することの優先順位はかなり低い)

 

したがって、既成の枠組みや概念や経験を前提としたイメージを

瞑想の中で展開しても、あまり意味をなさない。

 

「誰かや何かに愛を送る」としても

自分が「愛」だと思っている波動を送ることはできるかもしれませんが

「愛」の質や定義は人それぞれ。

 

神仏やマスターをイメージするとしても

自分が「これが神というもののはずだ」「これが仏だ」「マスターだ」

と思う波動を感じているに過ぎない。

(あるいは、自分が感じる波動を、神や仏やマスターと結びつける)

 

アストラル的にはエネルギーが動いたり

交換が行なわれたりしますが

あくまでも二元、相対的なものであって

絶対のものではない。

 

「愛」を全体、絶対の質ととらえる方も多く見かけますが

「愛」がある以上、「愛でないもの」が存在するわけで

愛も二元、二極の世界において成立するものです。

(だから、「愛」の名の元にワンネスを標榜すればするほど、現実においては分離を強化することになりがち)

 

以上を踏まえて瞑想を楽しむのであれば

イメージング系の瞑想法を選択して、何ら問題はないと言えます。

 

毎日がハッピーなものになるかもしれないし

他者に優しくなれるかもしれないし

ラッキーな出来事がいろいろ起きてくるのかもしれない。

(波動が変われば、選択も変化するので)

 

求めるのがこの世的なものであるならば

この世を生きることが楽しくなれば、それでいい。

 

ただ、既知のものを通して、未知のものに通じようとすることは

ビニール袋に閉じ込めた空気を通じて

真空の宇宙空間に繋がろうとするようなもので

厳しい道のりとなるであろう、ということなのではないでしょうか。

(できないことではないんでしょうけど、かなり人による)

 

生きるということについては

イメージングが有効な場面が多々ありますし

イメージングを避けて通ることができません。

 

そして、イメージングが上手な人のほうが

現実的なコトを上手く運ぶ

能力を発揮する(スポーツ、芸術など)

とも言えます。

 

どこかに出かけるにしても

今日の昼食を考えるにしても

何を着るかを決めるにしても

今の自分にフィットした現実を手に入れるためには想像力が必要で

想像力は経験をベースにしています。

 

それを、より思考寄りに行なうか

体感や勘に頼るか

そのあたりには個性や得意不得意が出ますが

経験をベースにしないで生きている人はいないはずです。

 

瞑想の目的を、現実寄りに捉えるか

この世、現象界を超えたところに定めるか

それが、よしとする手法の選択に影響するように感じます。

 

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