トップアスリート達は、みんなが瞑想だと思っているような瞑想を日課としていなくても、一流の瞑想者達であると私は思っています。

もちろん前提として、素質や努力、活動を継続できる諸々の環境、キーになる師や人物との出会いなどは重要です。

そのうえで、マインド、ハート、身体(心&技)がひとつになったとき、それらを包み込んで貫き、昇華させ、次元をシフトさせる働きをするもの、それが「空(くう)」です。

“オリンピックに棲む魔物” は「自分自身」

オリンピックには “魔物” が棲むと、出場した選手の多くが言います。運不運、番狂わせ、いろんな事態が、自分の思惑とは別のところで起きてきて、勝負の世界に対し、大きな影響力を持ちます。

それを瞑想的視点から、みてみたいと思います。

覚醒に向かうプロセスにおいては、『自分』の一部が、『悪魔』として出現することがあります。

スポーツの競技や演技の最中、競技者はある種のゾーンに入ります。それが覚醒に近い状態を作り出します。

そこに何らかの抵抗を生み出すのが、『自分の作り出した悪魔』。

抑圧した何か(封じ込めている自分)が、反逆を開始するのです。

それは失敗に対する不安や恐怖なのかもしれませんし、自分の完全性の幻想を損なうことへの恐れから、あえて目を逸らしてきた自らの負の側面なのかもしれません。

眠っていたものが目覚めることで、自分の存続と安全が脅かされる何かが “魔物” であり、“オリンピックに棲む魔物” とは、自分の外側に存在するものではありません。

到達したい最終地点の一歩手前に辿りついたとき、自分のなかで、その存在を知らしめんと動き出す、隠ぺいされてきたエネルギーなのだと思います(私はオリンピックに出たことがないので『思います』と表現しておきます)。

スポーツ選手がよく、「自分に勝つ(克つ)」と言いますが、“自分の生み出す魔物(エゴマインドの産物)” の影響力を、超越論的自我*が『無力化する』在り方を、そう表現しているのだと推察します。

マザー・テレサが死に際に出会った『悪魔』

マザー・テレサを、慈愛に満ちた聖人と思っている人は多いですが、結論から言うとそうでもなく、よくいる『偽善者』のひとりでした。

とは言え、多くの人を助け、並みの人では到底無理な偉業を成したわけで、それはそれとして大いに評価されるべきでしょう。

死期が近づいたとき、彼女を迎えに現れたのは『神』ではなく、『悪魔』でした。

それが何度も繰り返されるので、彼女は人脈を駆使し、ヴァチカンの司教たちに悪魔祓いを依頼します。

しかし悪魔祓いも空しく、やってくるのは『悪魔』だけ。その状況を打開せずして、死にゆくわけにはいきません。

『悪魔』が『自分』であることに、ようやく気づいたマザー・テレサは、『悪魔』を抱擁し、すべてを統合して後、安らかにこの世を去りました。

悟りを得る前のブッダのところにも『悪魔』がやってきた

ブッダは悪魔マーラの策略に堕ちることがありませんでした。洗礼を受けたイエス・キリストも、荒野でサタンの誘惑を受けました。

ブッダもイエスも、“自分の生み出す魔物(エゴマインドの産物、俗な欲)” の影響力を、「空(くう)」とつながる超越論的自我*によって『無力化』しています。

『サタン』や『悪魔』は自分と相対峙する、自分とは分離した存在のように見えますが、すべては自分の影のようなものです。

ブッダの言葉に「自灯明・法灯明」があり、言わんとすることについて諸説あるようです。それらの最大公約数を超簡単に言えば「自分を救うことのできるのは、自分しかいない」ということ(大雑把過ぎますが(^_^;))。

“魔物”は常に、自分の心のなかにいるのです。そして、“自分の中に棲む魔物” を制した者、あるいは超越した者が、その先の世界を見ることになります。

超越論的自我* ⇒ カント、フィヒテなどによる『ドイツ観念論』における概念。“経験的自我” に対するものとして “超越論的自我” がある。

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