会話のなかで言われました。

「瞑想が停滞しているんじゃないか」

そうなんです。私自身もそれを感じていました。

 

瞑想をスタートすると

「空(くう)」っぽいところには行くのです。

(より厳密には、自分がソコに行くように意図し、ソコを探して、ソコに行きます。明らかな予定調和です)

 

ソコには

安心、平安、全一感、心地よく落ちていく感じ、拡大感がありまして

ソコにいると母胎にいるかのように安楽なので

意図してソコに行く

というクセが付いてしまったようです(ぶっちゃけ逃避です)。

 

自分の内側に

あるとき見出した

快適な穴ぐらのようなものがあり

そこにさっさと行って

スッポリ収まる感じです。

(リラクゼーションを目的とした瞑想ならば、それでもいいんでしょうけれどね)

 

「それはマインドが作り出した、偽の『空(くう)』だから」

という指摘を受けました。

 

そこで

「安楽なソコには行かないぞ」

と意図して瞑想をすると

瞑想って退屈だったり

しんどかったりしますね(笑)

 

ソコには長時間留まることができますが

ソコでない場所にあるときには

一部の瞑想の生徒さんが

「30分座ってられません」

とおっしゃる気持ちも分かる気がします。

 

先日、ある神社の拝殿で瞑想をする機会がありました。

 

自分という器のなかに

頭上(クラウンチャクラ)から

光のようなエネルギーが

どっと入ってきて

私のなかで満ちて拡大していきました。

 

私は

肉体をもった個人という “限定性” から自由ではないので

「私の中に入ってくる」という感覚を持ちました。

 

しかし

その “限定性” が壊されたとき

個体性をもってして

コントロール不可な “何か”

が起きるのだろうと思います。

 

私が作り出していた「疑似空(くう)」は

どちらかと言うと没入していく感じ。

(内側へと向かっていく)

 

それに対して拝殿での体験は

ひたすらに上から流入し続ける

(外側からやってくる)

というものでした。

 

非常に個人的な体験なので

文章を介して上手く伝わる気がしませんけれど

 

それをどんな人がするか

にもよりますが

自分のなかに

「空(くう)」とのつながりを探して

そこを辿って

「空(くう)」に至る

という流れも

あり得るわけです。

 

その一方で

「空(くう)」が

より本来に近い姿をとるのは

 

自分がある次元以上の存在になったときであり

(一時的にでも、ある条件を備えたとき)

 

そういったときは

「空(くう)」のほうから「個」を呑み込んでいくのではないかと思います。

 

ちっぽけな人間の側が

「空(くう)」を

自分の都合に合わせて

コントロールできるとしたら

それは

そのときの器

そのレベルに合った

「空(くう)」なわけです。

 

読了することができない本か増えていくなかで

珍しくスラスラと読めた本に

(フルフィルメント瞑想とは無関係)

こんなことが書いてありました。

(読了できない本とは、自分にとって不要な本なのかもしれませんね)

 

「三昧あるいは一つの空の世界に入って、その世界にとどまるのは、堕ちた状態」

「そこで達した一つの空の境位は、本物の空ではない」

「無に堕ちてもだめ、有に堕ちてもだめ」

 

つまり、「空(くう)」にも

段階やレベルがあって

一口に「空(くう)」とは言っても

重層的である、と読めます。

 

「眠っていたように感じます」

「身体は眠っているのに、意識は目覚めていました」

といった瞑想後のシェアに対し

ボブさんは

「それが『空(くう)』です」

と解説することが多い気がします。

 

「空(くう)」にもいろんな「空(くう)」があり

コレを「空(くう)」と思い込んだら

それらだけが「空(くう)」であると

マインドで限定せず

 

自分の成長段階における

それぞれの「空(くう)」を体験していく。

(と書くと、主体が「私」にあるように見えますが)

 

起きることに呑み込まれていく勇気を持つこと

真の手放しが

あるレベル以上の瞑想になると、必要性を増すと感じます。

 

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