あるセミナーに参加するため、台湾に行ってきました。

(フルフィルメント瞑想とは無関係/台湾セミナーに関する別記事はコチラ

 

私は「自分の師」となる人と出会えるといいなあ、とは思いますが

その一方で「自分の師」を求めていません。

(私は、①誰かの「師」となりたがる者にはロクな人材がおらず、②すべてを放棄して全面的な「師」を持つことは依存である、というふうに感じる、メンドクサイ奴だからです)

 

参加したセミナーの先生は

聞くところによると

「自分を救うことができるのは、自分だけ」

という一貫した姿勢をもつ方であるらしい。

 

そのグループの中に以前

「私とともに瞑想をすれば、私に付いてくれば、人々は救われる」

と考える

サブリーダーみたいな人がいたそうです。

(仮にAさんとしましょうか)

 

Aさんと手をつないだ

hand in hand 状態で

瞑想をすることで

いろんな神秘体験が得られたのだとか。

(もちろん、神秘体験をしなかった人たちもいた)

 

そして、

魔法にかかったような体験を得た人たちは

Aさんに魅せられて

Aさんとともに

そのグループを去っていった。

 

先生は

瞑想とは

究極には何もなく

そういった神秘体験も

自分が作り出している迷妄である

と指摘していたようです。

 

以上は、雑談のなかで聞いたことです。

 

面白かったのは

それを話してくださった方が

「歴史を見れば、何が正しいかが自ずと分かると思うんですよ。手を繋いで瞑想をしたら悟れる、ということならば、イエスは12人の弟子と、手をつないで瞑想をしたはずですが、そんな記録はありません。ブッダも同様です」

と語ったこと。

 

そうですよね~(笑)

 

イエス、ブッダといえば

・人々を導くにあたり、過去生を問題にしなかった

・弟子や人々に対して語った内容を記録に残すことをさせなかった(各人に合わせた対機説法を採ったため)

と言われています。

 

歴史に妥当性を見出すならば

・(あるか、ないかは別にして)今を生きるにあたり、過去生を取り上げることには意味がない

・(広く衆生に対し、レベルの底上げはできるかもしれないが)書をもって個人に教え説くことには限界がある

とも言えるのではないでしょうか。

(つまり、こういった、誰かのブログというのも、全体の底上げはできても、個人を救うことには至らないわけですよ)

 

スピリチュアルな世界に

ファンタジックな要素

エンターテイメントとしての要素を求める人は

相当数存在し

 

お金を惜しまず払うのは

そういった方たちだと

長年の人間観察を通し

私は感ずるわけです。

(商売と割り切れば、そこにターゲットを定め、ビジネスを展開するのが早道です)

 

「スピリチュアルが趣味」

というのは

「車が趣味」

「旅が趣味」

「映画鑑賞が趣味」

というのと同じ。

 

それで構わないと思うのですね。

 

その人の趣味であるし

お金を何に使おうと

その人の自由です。

 

ただし

私個人が

台湾セミナーを区切りとして

さらに強く感じるようになったのは

「スピリチュアルに生きる」とは

ものすごくシンプルな方向へと収束されていく生き方

ということ。

 

娯楽気分でスピリチュアル商材を消費すること

高揚した気分で各メソッドを闇雲に実践することからは

ほど遠いということです。

 

オススメ関連記事: