瞑想を行なうときの姿勢には

伝統的なものとして

結跏趺坐(蓮華坐)などがありますが

フルフィルメント瞑想では

イスに腰掛けての瞑想

床に座って脚を伸ばしての瞑想を

お勧めしています。

(瞑想歴1年を超えたあたりからは、あぐらでの瞑想もOK)

 

主婦の方が

台所仕事の合間に

ダイニングのイスに腰掛けて瞑想したり

お勤めの方が

通勤の電車のなかで瞑想をしたり

日常生活の隙間に

簡単に取り入れることができます。

職場での休憩時間に瞑想をされている方もいらっしゃるようです。

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今回のタラコースに参加した

ごく初期(3日目くらい)に

私が腰を傷めたことは先の記事に書きました。

 

言い訳がましくはありますが

同じ姿勢で瞑想を続けることが

しんどかったので

「ラクな体勢で瞑想をしてもよいか?」

という質問を、ボブさんにしたところ

「どんな姿勢でもOKです。初心者の頃は、推奨される姿勢での瞑想が好ましいけれど、タラのタントラを実践するくらいの上級の段階になったら、どんな姿勢をとるかではなく、意識のあり方/向け方のほうが大切です」

という答えが返ってきました。

 

ところで、私は10年くらい前から、ゾクチェンに関心をもっています。

 

ものすごく大雑把に表現すると

仏教の教えには顕教(放棄の道)

密教(変化の道/タントラ)

ゾクチェン(自己解脱の道)があり

ゾクチェンはチベットの教えです。

 

インドにおける自己解脱の道が

アドヴァイタ(いまどきはノンデュアリティと言われることが多い)、そんな関係にあります。

 

あくまでも

私という個人の感覚においては

これら3つの教えの道が

分離独立しているわけではなく

その人の生き方やあり方

人生の道のりにおいて

配分が変わっていくのではないかと思います。

 

「とにかく放棄」とか

「私自身がマスターなの」とか

「そんな私も存在しない」とか

どれかひとつにどっぷりと浸かる、極端な状態には違和感があるのです。

 

タラのタントラは

自分自身が

本来の姿であるタラとなっていく

変化(へんげ)していくものですが

最終的には

日常生活を送るうえでの

境地/認識を変え

自己解脱の道へと続いていく瞑想法のようにも感じます。

 

話を戻します。

「ドルジェセムパ・ナムカ・チェ」

という根本経典のひとつには

「ゾクチェンにおいては、三昧(※サマディ)の境地に入るためには身体の状態を修正したりしない。姿勢をただし、背筋をまっすぐに伸ばすのは、三昧ではない」と書かれているそうです。

 

ナムカイ・ノルブ氏は

「ゾクチェンの教え」(地湧社刊)のなかで

「あるがままの三昧の状態においては、何かを変えたりする必要はない。身体の姿勢を修正しようとするすべての試みは、理性的な意識のはたらきから生まれてくる。そういった試みは、すべて偽ものだし、人為的なものに過ぎない」

「いろいろな修行法に対して、開かれた態度をとり、リラックスしている必要がある。いろいろな修行法をどのように実践するのか、よく知ったうえで、しかもそれらの方法に縛られないようにするのだ」

と述べています。

 

もちろん

チベット仏教の教えや修行と

フルフィルメント瞑想における

タラのタントラには違いが多々ありますので

同列に語ることはできません。

その点、ご注意のうえ、お読みください。

 

そのうえで

「瞑想中の姿勢がどうか/どうあるべきかに囚われすぎない」

詳しくは書きませんでしたが

「日常生活も瞑想の一部であり、毎日の瞑想行だけが瞑想だという段階を超えている」

そういった共通点をもっているように感じます。

 

一般論としては

エネルギーの状態が最善であるならば

理性的な働きによって

姿勢を修正しなくても

おのずと理想とされる姿勢として顕れるもののようです。

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