年末が近づき、もやもやしつつ、放置していた事柄の処理を行なっています。

その一環として「ほとんど使わない」クレジットカード3枚、そして毎月引き落とされている「使えない」2つのサービスを解約しました。

さて、瞑想のもたらす『認識力』について書こうと思います。

瞑想の習慣は『認識力』を拡大していく

瞑想のよさのひとつは、習慣とすることで、日常生活を送るうえでの、認識の広さと深さが自ずと拡大されていくことです。

物事の背後で動いている流れやエネルギーが、そこはかとなく分かるようになっていくので「心配する」ことが減って行きます。

出来事のひとつひとつに一喜一憂しなくても、次の展開が準備されつつあることを、体感的にも理解していきます。

心配の多くは、「先が見えないこと」によって生じます。

目の前の課題がいくつかあるとすると、急いだほうがいいもの、適切なタイミングを待ったほうがいいもの、放っておいて構わないものの識別も容易になります。

自分の認識を超えた認識は、想定した形でやってくるとは限らない

瞑想を習慣的に実践していると、「普通の人間が当たり前に生きている状態」における、「当たり前の認識の領域」が拡大していきます。

一方で、現在では減ってきていると思いますが、「普通かつ当たり前の状態」以上の認識力(超能力、サイキック能力などと言われる)を得ることを求め、そういったことを目的とした瞑想法等を採用される方達もいるわけです。

超常的な能力の獲得や拡大は、自分のアタマが想定したような、“ファンタジーの世界” で起きるとは限りません。

“ファンタジーの世界” とは、ある日、ほかの人には見えないマスターが現れ、何らかの能力を授けられたり、ある日を境に、自分の思い通りに、見たいものが見え、聞きたいことが聞けるということが起きたり。

そういう人達もいるのでしょうが、上記は、人間が理解しうる、ある整合性、ストーリー性を備えています。それに対し実際は、予期せぬ形で(マスターが、イニシエーションが、ではなく)、まとまりなく起きることが多いのではないかと思います。

今までの枠を超えた認識力は、自分のマインドが想像/想定しうる形でやってくるとは限らないのです。

これは私のケースですが、普段の生活で「A~Zまで、知りたいことを何でも知る」ことができるわけではありません。しかし、重要なことについては「知りたい」とすら思わなくても、インフォメーションがやってくる。

それは、小さな自分の意思とは無関係なところで起こります。

啓発とサイキック能力の関係

ボブさんによれば、啓発を得た人にとっては、サイキック能力があることは、当たり前なのだそうです(文字が書ける/読める、といったことの拡張版)。

しかしながら、生まれつきにせよ、後天的なものにせよ、「サイキック能力がある」から「啓発している」とは言えませんし、その能力ゆえに「人格が優れている」わけでもありません。

能力者には “陰陽のバランスが悪い” 人が少なくないような気が、個人的にはしています。(真に優れた人は、自分が能力者であることを吹聴しないもののようですが

瞑想は、その人の状態や段階に応じた『認識力』をもたらす

私は自分を出来の良い人間と思っていません。

したがって、サイキック能力の積極的な開発は、自分の落とし穴を自分で掘ることにつながり、自分の進む道をかえって険しく困難なものにします。

サイキック能力そのものは、“マインド” の領域にあります。使い方次第では魔道に堕ち、カルマを増やすので、私のような人間には「身の丈分の認識力」を与えてくれるタイプの瞑想が適しています。

先に「重要なことについては、『知りたい』とすら思わなくても、インフォメーションがやってくる。それは小さな自分の意思とは無関係なところで起こります」と書きました。

「小さな自分の意思とは無関係」であるからこそ、奇しくも、そしてありがたくも、宇宙の調和が保たれているのです。

 

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