夏至ですね。いかがお過ごしですか?

さて、前回の「瞑想よもやま話」では

「イメージとは、既知の体験や概念に基づくものである」

と書きました。

 

大多数の人達の、大多数のイメージ

現実的なところで操作的に用いることのできるイメージとは

そのようなものだと言えるのですが

なかには

経験していないし

学習していないけれど

「なぜか分かってしまうこと」

「なぜか知っていること」

というものがあります。

 

それを哲学者などは「先験的なもの」と呼んだりします。

経験に先立って「ある」ものですね。

 

私は哲学者ではないし

本格的に哲学を学んだこともありません。

(大学と、一時在籍した大学院で、チラと学んだ程度。しかも、ほとんどが既に忘却の彼方)

 

したがって

あくまでも私流の感覚的な整理に過ぎませんが

その辺りを図で示すと

こんな感じになります。

(学術的なものではありませんので、それなりに眺めていただければ)

 

知の概念図

 

ユングは、個を超えて共有する無意識を「集合的無意識」と呼びました。

まったく交流のない、離れた文化圏に伝わる話や神話を比較すると

共通した構造や象徴といった、元型(アーキタイプ)をもっている、というアレです。

 

これも先験的なものとされています。

 

Aさんが、体験したり、知ったりしたことを

Aさんと時代も場所も異なるところに生きていて

もちろんAさんのことなど知らないBさんが

どういうわけか

Aさんの個人的であったはずのものを共有している

みたいな感じと言えるかもしれません。

 

私の感覚からすると

これは動きのあるもの(粗い作用)で泥臭い。

なんと言うか、洗練されたもの、高い次元のものとは感じない。

 

「別々に見えても、私たちはひとつだよ」

ということの現れ、くらいにしか感じません。

 

それに対し

もっとエッセンスや真理に近いものがあると

個人的には感じるわけです。

(一部、集合的無意識と被っているかもしれないけれど)

 

それをここでは

「ロゴス」「先験的な知」

と仮に表現してみました。

(私の感覚に近い言葉を、とりあえず当てはめてみた)

 

「ロゴス」はギリシャ語で「理性・言葉」。

 

各種の意味があるようですが

「空想」ではなく「理性」

「万物の生成を支配する永遠の理法」

とも言われます。

 

個人的な解釈では

血肉のくっついたストーリーではなく

エッセンスだけで成る骨組みのようなもの。

 

そして瞑想とは

「ロゴス」「先験的な知」

を通し

さらに我々の源へとつながろうとする

(アストラルの次元を超える)

ひとつのツールだと

私は思っています。

 

今は

多数の人達が

アストラルの世界・次元を乗りこなすことが

珍しくない時代。

 

そこで楽しくやっていれば

(天使と協働、引き寄せ、具現化等)

案外面白い人生となるのかもしれませんし

 

アストラルを通らないと

それを超えたところには行けないとは感じるので

それはそれでいいのかもしれません。

 

実際のところ

アストラルの次元以上で生きることは

難しい道のりで

私も今生で超えられるかどうか。

 

ときどき「ロゴス」「先験の知」と

繋がっている感じを覚えるときがあるので

それが救いと言えば、救いなのかもしれません。

 

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