少し前から「日本語教育能力検定試験」の受験勉強を始めました。
しかし本質的に日本語という言語に関心が希薄なためか、異文化理解や心理、異文化間教育といった周辺事情の科目のほうが面白く感じます(それらも物事や事象を整理分類しているだけの学問なので深遠さはないのだけれど、比較すれば、の話です)。
それに先立ち何回かTOEICを受験し、JICAのシニアボランティアに応募できる水準の英語力はクリアしていることが分かったため、引き続き英語には接し続けるとして「英語学習」から「日本語教育」へと目を向けました。
コミュニケーション力は語学力とあまり関係がないと思っていますが、語学理解が深まると面白いことや便利なことが増えますね。海外ドラマを字幕なしで楽しめるとか(笑)死ぬまで日本にいるのかもしれませんけれど、海外での暮らしもしてみたいんですよね。
日本は高コンテキストの社会です。文脈を読むことでコミュニケーションが成立します(空気を読む、というのもそのひとつ)。欧米社会は低コンテキストの社会です。伝えたいことは自分で言語化、表現することが当たり前で「互いに察し合う」という相互依存の弱い社会です(改めて言うまでもない内容ではありますが、受験勉強のテキストに、そのように整理分類されていたので使ってみます)。
そうは言っても「察する」「察しない」の能力は、文化を問わず、その人がどういう人かによってかなり異なり、日本人であっても「察しない」人は「察しない」し、西洋人であっても「察する」人は「察する」ため、共感力や想像力の問題とも感じます。
ただし「自分から表現する」と「いわずもがな、をわざわざ言う暑苦しい人」みたいに受け止められがちなのが日本文化、「相手が察してくれる」のを待つのではなく「自分から表現する」ことが自然なのが欧米文化ということです。
私は、我が家の前を散歩する犬によるオシッコ被害を最小限にするため、塀の手前に鉢植えを置きました。その意味を察することなく相変わらず鉢植えにオシッコをかけていた飼い主を2人ほど特定していますが、どちらも男性です。旅行や出張で不在も多く、24時間見張るほど私は暇ではないため、たまたま目撃しただけですけれど、たかが2人とは言え、どちらも男性というのは興味深い事実と思います。
一般に、外で働く男性のほうが社会経験や社会常識に触れる機会が多いため「文脈や空気を読む」トレーニングを積んでいるかのようですが「誰かが大切に育てていたり、花が咲くのを楽しみにしたりしている植物」への共感力や想像力、「そういう存在をないがしろにしないでおこう」という思いやりは、女性のほうが多く持ち合わせているのかもしれません。
固い心をもつ人にとっては、自分のものも他人のものも、塀も鉢も植物も電柱も全部同じ。自分を閉じているから何も感じないのです。そして何も感じない人に何かを感じさせようとしても(キレイなお花を飾るとかしても)徒労に終わるので、犬の習性として避けて通ることになる工夫を施す(グレーチングを敷く)ことに私はしたんですけれどね。
低コンテキストの人向けには「犬にオシッコをさせないでください」等の立札をするほうが分かるのかもしれないけれど、低コンテキストの人は低コンテキストなわけだから、立札で意思表示をしている家では犬にオシッコをさせないけれど、立札(意思表示)がない家にはさせて構わないと思うのかもしれません。
高コンテキストの日本社会に生まれ育ったとしても、そういった社会環境が、その手の人たち固有の鈍感さや閉塞性を根本から解決するわけではありません。
低コンテキストな人に対しては、低コンテキストなやり方のほうが相応しいこともあるでしょうし、低コントキストであっても受け入れざるを得ないやり方を採ることが有効なときもあります。
…ということで高コンテキストと低コンテキストのお話でした。