インターネットの普及&発展により、海外旅行はすごくラクなイベントになりました。私より年長の方や冒険者タイプの方にしてみたら、私の話など生ぬるいでしょうけれど。
私が若かった頃、ツアーに参加したいなあと思えば新聞や雑誌などの広告を基に郵送で資料を請求し、まずは届くまでに1週間弱。
地図も観光局や旅行代理店から無料でもらえるものもありますが、自前で購入すれば700円くらいはかかり、地図片手に街を歩いた結果、道に迷えば通りすがりの人に尋ねるほかない。地図は開いたり閉じたりするうちに、折り目が少しずつ破れてきます。
20年以上前の話になりますが、当時、友人がロンドンに住んでいたので2回ほど遊びに行ったことがあります。どこで何時に待ち合わせるか、日本とイギリスの間のハガキのやりとりで決めました(国際電話は料金が高いし、インターネットはまだありませんでした)。
何が楽しい、どこが見どころ、そういった口コミも情報量の多い人物や機関とつながらない限り、生の情報、確度の高いものは手に入りませんでした。ガイドブックや旅行代理店にお金を払わないと、細かなことや具体的な内容が分からない場合も多くありました。
飛行機のリコンファームも自分で電話をかけて拙い英語で行なわないといけませんでした。社会的努力あればこその旅行でした。
今は何から何までインターネットが代行してくれます。資料請求も、飛行機やホテルの予約も、お店の予約も。
身体なんぞ1ミリたりとも動かさなくても、いろんなサービスを比較検討できます。行く前から飲食店のメニューや料金、お店の内装や雰囲気まで分かります。メールで問い合わせれば24時間以内に返信があって当たり前。下調べしてから行かなくても、その場で目に付いたものは、検索すれば即座に何であるか、どんないわれのあるものかが分かります。ポケットタイプの英和辞典、和英辞典を持ち歩かないでもネットが使える環境にあれば翻訳もできます。「両替しようかな~」なんて思ったとき、今日のレートもすぐに分かります。どこに行けばレートが良いかすら分かります。
今回のカナダ旅行では、グーグルマップをよく使いました。
行先を入力すれば、効率的なルートから、交通手段別の所要時間まで教えてくれます。付近のお店にはどんなものがあるかも分かります。お店をクリックすれば口コミを読むことができます(英語ですが)。時間、距離、体力、労力など、いろんなコストを節約できます。
実際には、社会におけるテクノロジーの仕組みと発展に支えられているだけですが、個々人の万能感は自ずと「高まり」ます。時系列で表現すると「高まる」となるわけですが「世の中とは、そういうものだ」という認識に最初からある人たちは「テクノロジーの仕組みによって拡大している能力=自分自身に元々備わっているもの/素養」として取り扱いがちです。
ところが何かの目的を遂げるために自分の身体を動かしたり、困ったり、焦ったりしながら、知らない人たちとリアルに関わったり、面倒な手順をひとつひとつ自分自身で進めていったり。それを身をもってしたことがあるかないかで、人としてかなり違うと私は思うのです。
今は泥臭い努力が好まれないし、労少なくして、スマートに物事を成し遂げることが当たり前/美しいかのようですが、キレイで完成度の高いことを言っていても(今の若者には結構多い。ある意味で成熟しているようにも見える)「じゃあ、あなたが身を粉にして動いて、一体どれだけのことができるのですか?」と問うたとき、行動力や根性といったバイタリティも、人を動かす力にも欠けている場合があります。
恵まれて育った者には根性がない、憎しみなどの負の感情をバネにすることで人間は頑張れる/成長できるということではないし、ある人にとっての苦労を同じように苦労として感じることすら必要ではありません。
それはそれとして、二次元的疑似の情報のなかを泳ぐことを体験と捉えるのではなく、肉体を通しての体験をしっかり積むことは生まれてきた以上、そしてまた生きていくうえでかなり大切なことだと思います。
知人は小学生の子供が何かの調べものをするとき、インターネット(ウィキペディアとか)を使うことをさせず、図書館へ一緒に足を運び、紙媒体を使って調べることを教えていました。「インターネットでラクをして大量に手に入る情報を真実だと思い込んだり、鵜呑みにしたりするような子にはなって欲しくない」と。
例えば、そういう逆向きの努力(新しいテクノロジーに触れさせることばかりをよしとせず、あえて時代に逆行したことをすること)も、ときに必要なのかもしれません。社会の仕組みのあり方がテクノロジーの発展によって底上げされているからこそ、見えてこない/明るみに出ることのない部分があると感じます。