トビリシを出発し、ゴリの街へと向かいます。そこには、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長だったヨシフ・スターリン(1922年4月3日 – 1952年10月16日)の生家と博物館があります。
ざっとまとめるとスターリンとはこんな人。
生まれと育ち:ロシア帝国統治下のジョージア(ゴリ)で生まれた。父は靴職人、母は家政婦。仕事がうまく回らなくなった、アルコール依存症の父の暴力に耐えかね、母子は転居を繰り返し、ある司祭の世話になる。その縁で神学校で教育を受けるが、後に無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、革命家へと転身。
頭角を現す:レーニン率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わる。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握。レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となり、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与。
権力争い:ソビエト連邦の指導者であったレーニンが1924年1月に死去すると、その後継を巡り、レフ・トロツキーを1929年に国外追放。自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで最高指導者としての地位を確立。
ソ連の最高指導者:トロッキー追放後は要職を兼任し、死去する1953年3月まで最高指導者の地位にあった。
育ちのせいか問題のある夫/毒親だったみたい:最初の妻イェカチェリーナとは彼女の義理の兄を通じて知り合い、出来婚だった。イェカチェリーナは発疹チフスで死去。彼女の産んだ息子のヤーコフに対してスターリンは冷酷で「出来損ない」と侮蔑していた。二番目の妻ナジェージダは職業婦人志向だったようだが、心身に問題を抱えていたと同時に夫の不義理/不倫に苦しみ拳銃自殺。スターリンは妻の自殺を隠匿しようとした。死因の異なる死亡診断書への署名を拒否した医師たちは殺害された。ふたりの間には息子ヴァシーリー、娘スヴェトラーナがいた。娘は母の本当の死因を知らされておらず、その事実を知ったことにより母方の姓に変更してアメリカへ移住。父スターリンの葬式に出席することはなかった。息子のヴァシーリーは父スターリンの威光で不正を行って世渡りし享楽的な生活を送っていた。ヴァシーリーに関心を示さなかったスターリンの死後、気の毒な息子は実力不足もあって不利な立場へと追い込まれていった。ドラ息子ヴァシーリーはアルコール依存症となり40歳で死去。







